フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

友人の訃報の知らせに言葉がありません。

2020-11-27 17:26:20 | 想い出

一昨日、郵便受けに喪中のハガキが入っていました。差出人の名前を見た時、”どなた?”と思いながらハガキを読みました。瞬間、強い衝撃を感じました。差出人は、昔々とてもお世話になった方の奥様でした。

奥様にお目にかかったことは有りませんが、写真入りの年賀状を頂いていました。今年はコロナの流行でクラス会は開かれていませんが、毎年クラス会でお目にかかり、お元気な方でした。

国立を失敗して、大学進学をあきらめるつもりでしたわたしに、”私立でもなんでも大学に進むべき”と力説し、反対している父親を説得しに我が家に来ると言い、驚きました。それで父にそのことを伝えた結果、条件付きで進学を許して貰えたのです。恩人です。

その時、すでに3月末、30日くらいだったと思います。自宅から通学出来、その時期に募集をしている大学は数が少なく、2校だけでした。一つは夜間大学でした。”君は一応女の子だから、日中の方が良い”と言い、自然に絞られました。

そして、大学生になりお互い環境が違いますから、お目にかかることも無く時々ハガキで状況を伝えるくらいでした。クラス会でお目にかかった時、近況を伝えていました。

10年位前になりますが、友人に連絡しお目にかかりました。大学に進むことが出来たお礼を伝えたかったのです。”そんなことをワザワザ…”と、言いながら”そんなお礼を言って、安心して死んでは駄目だよ”と笑っていました。

その時の友人の様子を想い出しました。ご冥福をお祈りするしか術は有りません。寂しくなります。

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ミシンが突然動かなくなり途方に暮れ、ぼんやり昔々の事を思い出していました。

2020-04-22 20:52:09 | 想い出

暖かい日 という事でしたが、陽ざしが無くなんとなく寒かったです。午前中はいつも通り台所仕事をしたり片付け仕事をしていました。10時半ころになって、長兼昼食を食べる支度をしてやっと一休憩。

昨夜作って食べたみそ仕立てのシチューと、何時もの常備菜と生野菜で食事に。藤棚に下がっている花房が、風でゆらゆら揺れているのを眺めながらラジオを聞きながら食事をするのが常。

あるじが”流行らない食堂みたい”と言っていたわたしの実家の食事は、一番初めに住み込みの若い男性たちが食事をして、その次に私たち子供たちが食事をします。最後に両親と祖母の”大人”の朝食になりました。

 

昼食は、子供たちは学校に行きますので住み込みの男性たちで、その次に大人と家に残っている子供が居れば一緒に食べました。ただ、日曜日でも住み込みの人たちの食事が有りましたから、食事タイム常に3部制でした。

当然夕食もです。特に父は毎日晩酌をしていましたから、大人の食事時間は長かったです。

そんな家でしたから、あるじが亡くなるまで一人で食事をしたことは無かったのです。玄関のドアも深夜以外はカギを掛けることはなかったはずです。

 

日曜のお昼は、弟たちのお友達が遊びに来ていましたので、”ご飯ですよ”と声を掛ければ、彼らが真っ先に食堂に来て席に着くのですから、ビックリ。

父は時々、”今日もいるのか?迷い犬みたいだな”とからかったりしましたが、当人たちは全く気にせず楽しそうに食べていました。そんな家でした。

 

わたしが学生の頃、母に”弟と妹の勉強を見て欲しい”と言われ、月水金は弟と弟の友人3人、火木土は妹とその友人3人の勉強を見ることになりましたから。毎晩7時から9時までは、お姉さん先生でした。

夏休みは日中、お勉強タイムにしたのですが、部活の後の時など”お腹が空いて勉教出来ない”などと言う子が居ました。そんな時は、御櫃にいつもご飯が多少残っていましたから、お握りを作りました。
お腹が空いた一人分では無く当然4人分でです。

懐かしい良い想い出になっています。妹の友人たちは、今でも訪ねてきてくださり、わたしを”先生”と呼びますので照れます。

 

午後から、ミシンを踏んでいたのですが、突然動かなくなってしまい、ミシン屋さんも”コロナ”の影響でいつ来てくださるか不明とか。ちょっと残念!それで気落ちしてしまい、外を眺めながらぼんやり昔々の事を懐かしんでいました・・・。

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気になっていたことを大分片づけられたからでしょうか、久しぶりにリラックスしてます。

2019-10-04 21:55:54 | 想い出

朝の内は、予報通り雨が降っていましたが10時ころには上がり、強い陽ざしが射すようになり、暑い一日になりました。とても10月とは思えない一日でした。

今日の予定は無いのですが、先日ほのぼのメンバーが集まった時、来られなかった方を訪ねてきました。難病のご主人の介護で来られなかったので、介護をしておられる彼女を見舞ってきました。

長居をせず早めに帰宅。先日から手掛けている生姜味噌をパッキングし冷凍庫に保存してから、頂いた根ショウガの処理を開始。綺麗に洗って水分を拭き取ってから、おろし金を使って卸したり針生姜にして、使いやすいようにパックして冷凍庫へ。

何とか紫蘇とシソの実の処理も完了したので、何となく気が楽になりましたが、まだ富士宮の新鮮市場で買ってきた、小ぶりの冬瓜が床下収納に入っていますが・・・。

 

今朝9時ころ、久しぶりに空腹感を感じました。嬉しかったです。大急ぎで常備菜を朝食用のお皿に盛り付け朝食にしました。主食の小ぶりの塩パンと常備菜3種類を盛り付けたのですが、完食出来たのは嬉しかったです。

更に、頑張って小口切りの小松菜と乾燥した小エビをたっぷり混ぜた納豆を海苔で巻いて食べました。一昨日、店屋物の釜めしを3食でやっと完食したわたしが、朝食を完食したのですから、嬉しかったですね。

食欲が無ければ、一般的には体重は減るのになぜかわたしは逆。浮腫みがでて体重は増えます。今回も1.5㎏ほど増えています。これ以上増えると気だるさが酷くなるので、要注意なのですが・・・。体調が悪くなったきっかけは、数日前寝付かれなかったことだと思ってます。

疲れすぎると、寝付かれ無くなり食事も食べられ無くなると言う、妙な兆候は依然からでしたから驚きませんでしたが、歳とともにその後の体力低下が辛いです。何度も経験していますので、快方に向かう時期も多少予想できますから、その時をじっと待つだけです。

 

一番疲れるのは、時間に追われながら行動することが一番苦手なのに、9月は作品展に出品したり、パソコンが壊れウインドーズ10のパソコンに買い替えたので、ウインドーズ10の講習会に参加したり・・・。カレンダーを見ているだけで、疲れを感じる予定の赤文字がビッシリでした。

何とか9月を過ごし、ホッとしたとたんにこの症状。これも毎度の事。店を営業している頃、シャッターを閉めたとたん意識不明になることがありましたし、自宅で夕食の料理が全部揃い、座れると思った瞬間意識不明状態になることがありました。人騒がせな自分でしたが、どうにも成す術なく家族に迷惑を掛けていましたね。

今は独りです。何時そのような状態になるかわかりませんから、常備菜を作っています。疲れたらぼんやり食堂の椅子に座り、常備菜をお盆に並べ、それをつまみながらテレビを見たりラジオを聴いたり、寛ぐようにしています。

そして何時も”楽しみながら~”をモットーに、体調が悪くても”毎度のこと~”ですし、誰もいませんから気を使って元気そうに装うこともないのです。今も早々に日記を書きながら、過去を楽しんでいます。良い時間です。

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暫くは、亡くなられた恩師との想い出に浸っていたいです。

2019-04-12 22:54:01 | 想い出
先日亡くなられた恩師の葬儀は、家族だけの密葬で行い、4月28日にお別れの会をなさるとのこと。
大分前の事ですが、学部長だった教授が亡くなられたときも、大學でお別れ会をした記憶があります「。
恩師は名誉教授になられ、大学院ではかなり遅くまで講義をなさっておられましたから、
大學に関係無しの葬儀は出来無いはず、と思っておりました。

学部長の「お別れ会」の時、亡くなられた恩師の奥様が着物をお召しになっておられました。
着物は着ない、と日頃話して居られましたので、本当に驚いたことを覚えております。


お宅に伺った時、先生とお話していましたら、ヨチヨチ歩きの長女が台所におられる奥様の処に行き、
戻って来たとき両手に即席ラーメンを持って居るので驚きました。
二つのラーメンでパチパチ手を合わせるようにして、ガサガサするその音を楽しんでいるようでした。
暫くして失礼する時、奥様の「気に入って居るようですから、どうぞお持ちなって」とのお言葉に甘え、
させて頂き、持ち帰ったことを覚えております。

懐かしい想い出です。その時の娘がもうすぐ51歳になります。長い間お付き合い頂きました。

先生のお宅へ数人で伺ったとき、餃子丼を作って下さいました。
その時も長女が一緒でしたので仕事を早めに切り上げ、迎えにやって来る事になって居ました。
餃子丼は、わたしも初めて戴きましたので、後からやって来る夫も食べたがるはずですから、
奥様にまたお世話になるのは申し訳ありませんから、綺麗に半分、残しておきました。

先生ご夫妻から、このことをいつまでもからかわれました。
わたしの食べかけ、余り物を食べさせた、と言ったり、仲が良いですね、と言ったり…。
食べ物には関心がある人でしたから、話だけでは満足出来無い人ですから、喜んで完食しました。
ご一緒していた友人たちは、ただ笑っているだけでした。

先生のお宅に、20人以上の大勢で伺ったことも有ります。その時は食事では無く御茶でしたが、
当時はペットボトルもありませんでしたから、お湯を沸かして御茶を入れるだけで大変な事です。
2LDKのマンションでした。当時、マンションは殆ど無い時代、殆どが木造のアパートでした。

恩師との懐かしい想い出は、たくさん有ります。
亡くなった方を思うだけで供養になるそうですから、暫くの間、恩師の思い出に浸靇事にします。
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家の中で遊ぶツールを「増やして欲しい」と娘たちに願います。

2018-02-19 22:48:32 | 想い出
今朝は何時もよりかなり早く目覚めてしまいました。
今までの遅く寝て早く起きると言う生活を止め、早めに寝て早く起きる様に改めようと挑戦開始。

今日が3日目。まだ”早めに寝る”と言う事が完全では無く、1時間くらい早くなっただけ。
もう少し早く寝る様にしないと、寝不足になってしまいますから、要注意と自覚しています。

月曜日は午前中治療に行き、午後からヨガ教室に行くのですが、明日次女の用事で出掛けます。
それで、治療は明日に変更して、洋間のテーブルに置いて居る洋裁の布等の片付けを頑張りました。

母が着て居ましたメリンスの長襦袢を繕ったり、明日以降始めたい洋裁の準備を兼ねて整理整頓。
ただ睡眠時間が少ないので、動いている時は良いのですが、直ぐ眠気に襲われるので参りました。

まずは、一階に持って来ている布から処理作業を始め、その後二階の茶箱の布に手を付けます。
数年間かかるくらい、たっぷり布地があるのに、着物を解いた布地も結構あります。
娘たちに教えるから…、と言うのですが、仕事もありますから、習う気は無いようです。

でも、今は元気ですが、彼女たちも歳をとれば、家の中で楽しめる物が無いよりあった方が良いはず。
今日は、土鍋を使ってお豆腐料理を作って楽しみました。結構美味しかったです。
鍋焼きうどん用の小振りの土鍋に適量の湯を沸かし、そこにお豆腐をスプーンで掬い、
汁の中にいれ味噌を適量加え、煮てました。
セリがありましたのでそれを刻んで入れ、長ネギやら人参やら茸など加え、
最後に溶き卵を回し入れ出来上がり。

お豆腐に角が無い事で、気のせいかお豆腐の味が違い、美味しかったです。
賞味期限が切れたお豆腐などには特に便利。
大振りのお豆腐一丁を全部入れましたので、食べきれず残っていましたので、
お昼に個包装のお餅を加えて煮て覧ました。美味しく戴きました。
茸など、適当に入れましたので、美味しかったです。

なんと無く忙しげにしていましたが、たいしたをして
一日中、何もしないでつまらなそうな顔をするは避けたいと思っています。
何か楽しめる事を探して、認知にならない様に気をつける事に・…。
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想い出と国立新美術館のスナップ写真

2016-04-02 18:47:46 | 想い出
4月2日 土曜日 曇り

今朝、5時前に目ざめたのですが頭がすっきりせず、起き上がれず寝たままのストレッチをしていました。
最近、この様な日が多くなっています。そんな時、わたしが看取りました祖母を思い出します。

祖母が60歳代になった頃だと思います。祖母が朝起きるとき、お布団から四つん這いで少し移動して、
障子に捕まって立ち上がっていました。
「この頃は、こうしないと起き上がれないのよ」と言っていました。

あの当時の祖母と同じように、わたしはベッドのヘッドボードに捕まって立ち上がっています。
それで、毎朝あの頃の祖母を思い出し、祖母が何時も近くに居るような気がしています。
母方の祖母で、戦後大分落ち着いてから一緒に住んでいました。

わたしは5人兄弟で、家事仕事も多かった上に、母が長く入院をしていましたので、助っ人でした。
その結果、母は働き者の祖母が亡くなるまで、ずっと甘えて来られたのです。
自分の母親の世話を受けたことで、わたしとの立ち位置が判らなくなっていたような気がしてます。

祖母が亡くなって、家事の担い手は当然母なのですが、そこに母の錯覚があったような気がします。
母とわたしが同列で、家事仕事をわたしと半分ずつと思っていたのです。
住み込みの若い人が6人はいましたので、朝食の時間も仕度もきちんとしなくてはいけません。

それで、母から「1週間交代で」と言われました。更に眠かったり疲れたりしますと、違反をします。
違反は母だけに許されていて、わたしにはありませんでした。
学生でしたから、もし違反しますと大学に行かせて貰えません。従うしかなかったわけです。

結果、母のような存在の祖母に、生きる為の大事なことを、いろいろ教えて貰えました。
思う様に立ったり座ったり出来ないとき、祖母はどう思っていたのかしら…、と考えます。
今でも尊敬して居ます。

昨日のブログを見て、疲れ切った自分を再認識しました。恥ずかしい限りです。反省してます。

国立新美術館と桜の写真をアップします。

満開の桜 

国立新美術館 
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楽しい想い出 味噌汁編

2016-03-01 20:32:41 | 想い出
3月1日 火曜日 晴れ

お朔日なので、庭からお花と榊を切って神道壇に供え、その他のお供物も何時もどおりに。
お天気が良いので、榊を切ったりお花を捜すのも気持ち良かったです。

ほのぼの編集会が、4日にありますのでわたしの仕事を終えないと迷惑を掛けます。
まず、表紙絵をスキャナーで取り込むのですが、どうしても何時もの様に出来ません。
操作を間違えたかと思い、何度かメモを見ながら試すのですが、駄目でした。
諦めて、4日に間に合うように再度挑戦する事にしました。疲れてしまいます。

それより、今朝お味噌汁を作りながら、昔々のお味噌汁事件?を思い出しました。
その一つは長女です。
彼女は”おすまし”は好きでしたが、”味噌汁”は何故か苦手だったのです。

聞いてみますと、食器の”お椀”が好きで無い、と言うのです。
それで、ジャパニーズ・スープと言い、スープ皿とスプーンですすめました。
味が変わったとは思いませんが、それでも笑いながら完食しました。
少しの間、カップスープの食器を使っていましたが、自然にお椀に戻りました。

もう一つはあるじです。
サラリーマンの頃、出掛ける身支度をしてから、朝食にするのが常でした。
あるじはお味噌汁は好きでした。ご飯と味噌汁はセットの様に思っていたと思います。

ところが真夏のある日、”ネクタイをして熱い味噌汁は拷問だ”と言うのです。
少し早めに起きて、食事をしてから着替えれば?と言いたいところです。
でも、それは言えません。

それで、煮干しと昆布で出し汁を作り、お味噌を入れ味噌汁のベースを作り冷蔵庫保存。
賽の目に切ったお豆腐、青菜のお浸し、わかめ、白髪ネギなどを、お椀に入れ、
味噌スープを注ぎ、冷たい味噌汁にしました。とっても喜んでくれました。

ところが、2週間目になりましたら、「味噌汁は熱くないと美味しくないな」と一言。
それからは、元通り熱い味噌汁に戻りました。味噌汁がらみの楽しい想い出です。
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年末の外出禁止で育ったので…

2015-12-27 21:21:32 | 想い出
12月27日 日曜日 晴れ

12月22日から、今年一杯の予定を書きあげ、スケジュール・チェックをしながら過ごしてます。
その予定には、25日の上野の森美術館行きも入れてありました。

「年末に美術館へ行く」など、若い頃から考えられない事だったのです。初めての経験でした。
子どもの頃からずっと、年末の外出はしていません。両親から許しが出ませんでした。
年末は家の中の片付けやお掃除をするのが、決まりになっていました。

小学5年になりますと、毎朝6時にお豆腐屋さんへ雪花菜とお豆腐の絞り汁を買いに行かされました。
雪花菜をサラシの袋に入れ、廊下や床柱や柱を磨くのです。
5人兄弟でしたが、下の2人は小さかったので参加せず、上の3人と同居していました叔母と4人です。

2人ずつに分かれ、お豆腐屋さんで雪花菜と一斗缶に持ち手を作ったものに絞り汁を買いに行くのです。
残る2人は、お豆腐やさんへ行った者が帰るまでに片付けやお掃除を終えるのです。
4人が手分けをして、廊下や玄関の上がりや床柱、部屋の柱を磨きました。

磨き終わったら、雪花菜は1箇所にまとめてそのままでした。手を洗い着替えをして、朝食です。
雪花菜の始末や雪花菜を入れていた袋を綺麗にしていますと、学校に間に合わなくなります。
毎朝のお掃除は、電車通学が始まるまで続けましたが、全員が電車通学になり自然消滅しました。

その代わり、年末は大変でした。雪花菜で拭いたりもしましたがワックスを使うようになりました。
ワックスで汚れを落として、それから乾拭きをしました。
その頃は、サッシュではありません。ガラス戸の木部を綺麗にするのも大変な仕事でした。


先日、美術館へ行きながらふと昔々の事を思い出していました。
この様な自由な時間を持てたのは、初めてでしたから。

朝から体調は良いとは言える状態ではなかったのですが、心はウキウキして気分的には最高でした。
浮世絵は学生の頃から好きでしたし、特に肉筆浮世絵の展示でしたから当然です。
チケットを用意してのお誘いです。誘って下さった友人に感謝です。
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ブログを毎日更新して居るのは…

2015-02-03 19:48:29 | 想い出
2月3日 火曜日 晴れ

今日も良いお天気だけれど、空気は冷たい一日。
プラゴミの収集日だったので、外の道路のお掃除をしながらゴミを出してきた。
外に出たのはゴミ出しの時と夕刊を取りに行った時だけ。ずっと家の中でゴソゴソして居た。

嬉しいのは、浮腫が大分消えて、もう少しで体重も平常値に戻りそう。
ただ、気怠さはまだ残って居て、本を読んでいても不意に眠気に襲われるのには少々参る。
そんな時は炬燵に潜って仮眠をするのだけれど、ちょっと帯が邪魔…。


ブログを更新するとき、今日は何をしていたのか、感激したことに出会えたか…、振りかえる。
その「振り返りをする」ツールとして、わたしは毎日書いているのかもしれない。
日常を書いているので、娘たちは多少安心できているのでは…、と思って居る。

今日は、朝食後1時間くらい休憩しながらだけれど、リコーダーを吹いていた。
その後、コカリナもちょっとだけ吹いて見た。「ド」からオクターブ上の「レ」までの9音しか無い。
探しながらだけれど、音が出せるようになったので「チューリップ」など童謡を吹いてみた。
リコーダーの時も、確か「チューリップ」の曲が初めて吹けた曲のような気がする。

午後から本を読んだり新聞を読んだり、お洗濯物を取り込みアイロンを掛けたり…。
何となく家事仕事をして、また本の続きを読んでいた。
眠気が来たら、炬燵に潜って一寝入り…。

こんなにのんびり寛げる時間がを過ごして良いのか、と時々思う。
フォンテーヌの店を営業していたときには、この様な時間が持てるとは夢にも思わなかった。
当時、あるじから「何が欲しい?」と聞かれた時、「自由の時間」と答えていた…。

お料理を楽しむと言うより、少ない時間で必死だったし、本を読む時間など全く無かった。
せめて月に一冊でも本を読みたいと言う気持ちが、読書会を始めることになり今も続いている。
始めて「図書館へ行って来ます」と言って、本を借りに行かれた時は本当に嬉しかった…。
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大事な友人が逝って、今日で3ヶ月…

2015-01-18 19:52:26 | 想い出
1月18日 日曜日 晴れ

18日。今日で大切な友人が亡くなって3ヶ月。あっという間、と言えばその通りだけれど、
精神的にはまだ過去の人になっていない、そう思う。
何かある度、友人の声と言葉が聞こえてきたり、彼女だったらなんと言うだろうか…、と思ったり。
彼女の居なくなったことの自覚出来ないでいる…。

蕗の薹の綺麗な色を残してご飯を炊く方法とか、竹の子を頂きすぎて困ったときの保存方法とか、
数え上げたらきりが無い。
それ以上に、便利グッズや新しい商品を探すのがお好きな方だった…。

色々あるが、その中のナンバー・ワンは「よみガエル」と言う蛙の顔をしたスポンジかもしれない。
スポンジが2枚仕立てで、小さくなり使いにくくなった石けんを顔の後ろ側に入れる様になっている。
彼女の真似をして、何個か買ってきて、娘たちやわたしの友人にプレゼントして喜んで戴いた。

彼女がiPadを使い始めたとき、iPadで朗読を聞いておられたとか。
見たいテレビが無いときiPadで朗読を聞いたり、散歩途中見つけたお花を撮して歩いて居られた。
そして、その写真で花の名を「花アプリ」で調べているとか…。彼女らしい。

彼女ほど上手に使えていないが、彼女のすすめでわたしもiPadを手に入れている。
粘土でお花を作って居られた彼女は、自作の作品を写し「花の名前は?」と質問するのだという。
「iPadが、花の名前を言い当ててくれた」と、とても喜んで居られた…。素敵な魅力的な方だった…。

食べる事にも強い関心を持って居られ、アンコウを食べに1泊で茨城に行ったり、
「金目鯛づくし」というチラシを見つけ、そこにもご一緒させて頂いた…。
中華街へ行くときも、「どの店のどの料理が食べたい」ときちんと決めてから声を掛ける方だった。

映画を見たい時も、「この映画は何処で何時から…」と下調べをして、それから声を掛けて来られる。
忙しい方なので、よほどのことが無い限り彼女のお誘いには喜んで出かけていた…。
あるじ同様、彼女との懐かしい思い出はたくさんある…。それも楽しい思い出ばかり…。
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独りを好んだのか、母の富士宮住まいは

2015-01-11 20:00:24 | 想い出
1月11日 日曜日 晴れ

予定の無い日曜日、その為か今朝もエンジンがかからない。動けない。
朝方5時過ぎに目覚めたとき、ての指がガチガチだったのでベッドの中で指の運動をしていた。
そうしながら眠ってしまったらしいが、目覚めたとき手の痛みはほとんど消えていた。

慌てずゆっくり起き上がり、身体のコントロールを第一にしてしてゆっくり動く。
片付けたり掃除機を掛けたりも、慌てずゆっくりゆっくり…。今のわたしにはそれが一番と思う。
空腹感は全く感じないので、水分だけは補給をしながら朝の仕事を終え、それから食事にした。

朝昼兼用の食事を済ませてから、しばらくリコーダーを吹いた。
それから和室の炬燵に座って、手紙を書いたり細々したことを片付ける。
夢中になっていたからか、電話の音にも気づかなかったようだ。最近子機の音が小さくなっている。
お茶を飲みに食堂に来て、長女から電話があったことに気がついた。

日曜祭日は、わたしのからの電話を控えているのに、用事があったら申し訳無いので長女に電話をした。
これという用事は無かった様で、明日の孫娘の成人式の事や受験生の孫息子のことなどを話た。
孫娘は仕度をして11時頃やって来る予定だけれど、何時になるか判らない事なども。

今日初めて声を出して話をした。このような事は珍しくは無い。
こんな時、富士宮で独りで住んでいた母を思い出す。話すのはわたしの朝晩の電話だけ、と言っていた。
母はやっぱり強かったと思う。別荘として建てた富士宮にずっと独りで頑張って居たのだから。

大森の自宅は空き家状態で、上京したときは我が家に逗留していた。
その時は、富士宮で独り頑張って居るからか、何でもわたしに言いつけて本人は座っていた。
歳が歳だったし、子どもの頃からそうだったので、身体はきつかったけれど従っていた。
口答えはタブーとして育っていたので、言い返すことはなかった。

でも、今になると、そのことも全てが懐かしく思い出されるから不思議だ。
母の様にはならない、その事がずっとわたしの信念だった。でも、やっぱり母に似てきたようだ。
娘たちも、そう思っているのだろうと思う。嫌だけれど、仕方が無いのかもしれない…。
でも母親は強い人だった…。そう思う。真似は出来ない。
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着物を着るようになったきっかけを…。

2015-01-10 20:05:55 | 想い出
1月10日 土曜日 晴れ

今日も朝から身体が勝手にストライキをして居た。
動こうと思っても動けない。右手の指を動かして、グー・パーをして見るが、思う様には動かない。
指がボテボテしているし、少し痛みもある。
それでも、朝の入浴と軽いスチレッチで動くようになるから不思議。指は太くても動いてくれる。

この歳まで、身体も手足も驚くほど酷使しているので、動いてくれれば上々。
どの様な機械でも70年以上、支障無く動く機械は無いはず。そう思うと気楽になる。
そんなことを考えながら、今日も寒かったので朝から和服を着ていた。

今日は、お洗濯をしたりお風呂を洗ったりカメさんの水槽を洗ったり、水仕事が多かった。
着物の裾が濡れないように、裾をまくり上げての作業。不自由無く、仕事を終えた…。
作業しながら、何となく何で着物を着始めたのかをぼんやり考えて居た。


着物姿で家事を始めたのは、母方の祖母の看病がきっかけだったことを思い出した。
祖母の姉妹のどなたか忘れたけれど、その方から「着物を着ての看病」が一番とご注意を受けたのだ。
座敷に硬くて厚さ20㎝近くあった布団を作り、その上に、祖母の布団を敷いて寝床を作っていた。
布団を2枚重ねているよりは、高さがあった…。

祖母の隣に普通の布団を敷いて寝ていた。癌の末期になっていた祖母を看る毎日だった。
大学病院で、家庭で看るのは大変なので、預かって下さると言って下さったが、お断りしていた。

病人の寝ている所で、立ったり座ったりする度、スカートではホコリが舞うと言う。納得。
和服ならば、座るとき右手で必ず着物の裾を整えてから座るので、ホコリが出ないとも。

それから、ウールの着物を着て、割烹着をして祖母を看たり家事をする様になった…。
着物を着るように助言して下さった方が、その後また祖母のお見舞いに来られ着物姿を喜んで、
後日、反物を送って下さった。その着物はまだ手元にある。50年前以上になるが…。
この頃ウールは着ていないが、ひょんな事から懐かしい事を思い出した…。

祖母が亡くなり、日常に着物を着ることは無くなったと思う。

40歳前後の頃、体調を崩し身体が冷えて起きていられず、衣類の重ね着して過ごしていたが、
そのままでは外に出られない。それから外出時は、着物を着るようになった…。

その後、体調は良くなり出かけられる様になっているし、更に今ではズボン姿で外出もしている。
着物の良い所は流行に関係ないこと、少しぐらい太っても痩せても問題なく着られること。
真偽は不明だが、結婚式などで、洋服より和服の方が正装と判断されると聞いたことがある。

この頃わたしは、着物の方が暖かいから着ているし、肩が凝らないから着ている。
若い頃に作って貰った着物が有るし、母の着物もわたしの所にあるのでそれを着るのは一番経済的。

母が着ていた着物をそのまま着ると、母の臭いがする様な気がする。
母の着物を着ていると、幼友達は「おばさんに似てきた」と口をそろえて言われる…。
母の着物を着ないで、タンスの肥やしにしては勿体ない…。それが一番の理由かも…。
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長かったけれど あっという間の 10年間 

2014-12-31 21:30:53 | 想い出
12月31日 水曜日 晴れ

朝から良いお天気だったのに、目覚めても起き上がれない…。
夜中の2時半に目覚めてしまい、それから何度も目覚めてしまう。
時計を見ては、起き上がらず目を閉じてベッドに横になっていた。

気怠くて起き上がる気力が無いのには参った…。
今日は大晦日なので、寝ているわけには行かない。頑張って起き上がりそのまま浴室に。
お風呂に入れば、元気に動けるようになるのは何時ものこと。

10年前の今日、脱サラして始めたケーキと手作りパンの店「フォンテーヌ」を閉店にした。
「店を閉めて10年」と言うことが意識にあるからか、今年の暮れは何時もとは違っていた。
当時を思い出したり、これからの自分の事を考えたり…。10年間は長いが振り返って見ると短い。
そしてあるじが亡くなって8年間。振り返って見るとあっという間のような気がする。


あの頃の忙しさは、言葉にならない。1分2分が貴重だった…。

低血圧で上が80前後で下が50前後、酷いときは74の44だったりした。朝の動きは悪い。
店の開店は午前6時。それまでにサンドイッチを作るのがわたしの仕事だった。

血圧が低くても、そんなことを言っては居られない。
解決策にお風呂に入ることにした。冬でも前の晩のお風呂の湯はそれほど冷めていない。
仕度をしている内に何とか入れるようになる。ただ、湯冷めに気を遣って居た…。

今のような、のんびりした時間が過ごせる事など、当時は夢にも考えられなかった。

掃除機を掛けているときも、洗面所の鏡を拭いているときもずっとそのことが頭から離れない。
自由な時間を欲しがっていたわたしが、今はそれを手に入れられたのに一体何をしているのだろう。
いつもその自問自答をして居る。

リコーダーも洋裁も料理も、もしかしたら時間つぶしなのかも。
わたしが当面しなくてはいけないことが無い、好きな事をしているだけ。
それでよいのだろうか…。


10年という節目からか、悩みながらの大晦日になっている。

高1の時、BCGで陽転しその年から3年間、体育の時間も見学させられる身体になり、
頑張っても人の8割動ければ上々、と言われていたわたしだ。

それでも、パン屋の女将さんを足かけ20年続けた。
その間に、2人の娘は結婚をし2人ずつ子どもを産み、母親役とおばあちゃん役があり、
更に、あるじの母を亡くし、わたしの父が亡くなった…。

店は一度も臨時休業をして居ない。結婚式も葬儀も休んでいない。
姑が亡くなった時など、店を離れられないあるじの代わりに娘と3人で式場へ。
まだ運転をしていなかった娘たちを乗せ、黒の紋付きを着てハンドルを握り葬儀場へ…。

こんな風に昔の事を思い出すのは、歳をとった証拠なのかもしれない。
明日から新しい年になる。昔の事は脇に置いて前に進むように努力しないと…。
何故か、今年の大晦日は沈んでしまっている。

明日からの新年を、良い年と思えるようにしたい。頑張るしかない。命ある限り前進あるのみ。
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あるじ殿 聞いていますか 天国で 

2014-09-29 17:43:06 | 想い出
9月29日 月曜日 晴れ

今朝、道路を歩いている時の若い男女のカップルの会話に、思考回路が止まってしまうほど驚く。
男性の低い声で何か女性に言った途端、「玄関に出しておいたのに持ってこなかったの?」と叱り声。
「知らないよ、早く取って来なよ」と女性の大きな声。

どうも、女性が玄関に出しておいたのに、男性がそれを忘れたて置いてきたらしい。
男性はそれを取りに戻るよう、女性に頼んでいる様なのだけど、女性は男性に取りに戻れと言っている。
立ち止まることも無く、どちらも戻る様子は無い。駅に向かって同じ歩調で歩いている。

同じ会話を、歩きながら繰り返して居るだけ。男性の声は低く小さい声なので、ほとんど聞き取れない。
それに反して女性の声はかん高い大きな声で、一個一言の言葉が驚くほどきついのには、ビックリ。
親子とは見えない。恋人か夫婦だと思う。そんな間柄でこの会話???

「聞いている?わたしもこんな風に言えたら清々したかもね~。」と、心中密かにあるじに話していた。
サラリーマンだった頃、「車を会社に置いてきたので鍵を持って行く」と言うので、玄関で手渡したのに、
何故かポケットに入れず、下駄箱の上に置いて出かけてしまったらしい。
玄関で送り出したとき、あるじの手元までは見ていなかった。

娘たちがそれぞれ学校に行き、ホッとしたころ電話がなる。
「鍵を忘れないように持たせて欲しいと、言っただろう!」とかなりご機嫌斜めのあるじの声。
「玄関で手渡したでしょう?」とわたし。
「玄関に置いてきたんだ。出かけるまで、ちゃんと見ていてくれよ。」とイライラが伝わってくる。

「どうしたら良いのかしら?」と質問すると、「会社まで届けて貰わないと困るでしょう!」とあるじ。
困る事は確かなことは、わたしも承知している。他の車に迷惑がかかる所に止めてきたらしい。
夫の不始末は妻のわたしの不始末と、自分に言い聞かせながら電車に乗り会社へ向かった…。

会社の受付の方に、「○○ですが、お願いします」と声をかけるとすぐにあるじが現れ、
「サンキュー。助かったよ。」と一言。
今想い出してみると、これはこれで良い思い出になっている、そう思えるようになっている。

でも、あの男女のきつい会話は、若さ故なのか、何だろう…。
娘達にもこれほどきつい口調で叱ったことは無い。まして普通の会話では尚のこと。それも、往来で…。
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雨上がり 人の気配なく 蝉の声

2014-08-23 19:33:57 | 想い出
8月23日 土曜日 曇り一時にわか雨

今朝は久しぶりに強いお日様の姿が見えず、その代わり辛い暑さは無い。
天気予報では、午後から雷雨があるかもしれないし夜になって雨が降るとか…。

いつかのような雷の音は無く、静かな雨だったことも嬉しかったし、久しぶりのお湿りは大歓迎。
夕方の水まきも今日は不要になるはず…。
ただ、玄関のドアー前に置いている満開のウドベキアには水をあげないと。
屋根の下なので雨水のご利益はほとんど無いはずだから…。

雨が上がってからの団地の付近を散策。車が時々走ってくるけど、人の姿は全くない。
雨が止みお日様の姿は無い。地面や周りに植えられている木々が匂っていた。
その匂いは久しぶりなので、懐かしさもありその匂いを楽しみながら歩いていた。



道路の右側には大好きな大きな公園が有る。此処にも人の姿は無い。



この公園は、2人の娘と2匹のワンちゃん、そしてあるじとわたしの楽しい想い出の場所。
時々夕食後、家族全員でお散歩をしながら、この公園でワンちゃんのロープを外して遊ばせたり…。

2匹のワンちゃんは、一緒に生まれた兄弟でとても仲良く、いつもじゃれ合って駆け回っていた。
時にはあるじがお散歩をしたけれど娘たちが就職するまでは、彼女たちの仕事だった。
一番世話をしていないのがわたしだったのに、何故かワンちゃんたちはわたしに懐いていた。

娘たちやあるじの声には、反応せず逃げ回っているだけのワンちゃんなのに、
「コロクン、いらっしゃい!」と言うわたしの一声に走って来て身体をすり寄せてくる。
それを見ては「お散歩したりご飯をあげているのもわたしたちなのに…」と娘たちは不満そうだった…。
ワンちゃんたちにも、わたしは「おかあさん」だったのだと思う。


道路の左側は、高層団地が何棟も建っている。





公園もこの団地も、蝉の声が賑やかだったけど、この蝉の声もあと僅かで聞けなくなる…。
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