史料綜覧 巻五 / 文永十年(1273)二月廿四日条
「廿四日 五壇法ヲ禁中ニ修シテ 彗星ヲ禳フ」
天皇は後宇多。鎌倉将軍は惟康親王、執権は時宗。文永十一年に文永の役がおこります。彗星の出現はやはり不吉でした。 . . . 本文を読む
河口 慧海は1945年(昭和20年)の今日2月24日、脳溢血のため80歳で死去しています。黄檗宗の僧侶。梵語の仏典原典とチベット語訳の仏典入手のため当時鎖国のチベットへ命がけで密入国。『チベット旅行記』を読むと当時の緊張感が促促と伝わってきます。帰国後は大正大学教授、仏典翻訳や蔵和辞典の編集に没頭していましたが、のちに僧籍を返上し在家仏教を提唱しています。慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現 . . . 本文を読む
今日24日は上賀茂神社・幸在祭(さんやれさい24日正午頃)です。上賀茂神社ホームページです。「上賀茂で古くより行われている今で云う成人祭です。当神社、摂社大田神社、田の神と山の神に15歳の元服を奉告します。」かくいう自分は俗世のころある国家的大施策が行き詰まっていたのを引き継ぎ、この成功をこの上賀茂神社に祈り見事成就して頂いたことがあります。 . . . 本文を読む
今上天皇は上皇殿下時代のお誕生日に(平成29年2月23日)次のような大変感慨深いお言葉を発表されています(当時皇太子殿下は平成28年(2016)8月7日には岩瀬文庫を視察され、平成29年(2017)2月23日に記者会見で岩瀬文庫訪問時の印象を語られています。)「昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を . . . 本文を読む
今日は醍醐寺の「五大力さん」です。以下醍醐寺ホームページに依ります。「五大力尊仁王会(2月23日)毎年2月23日、「五大力さん」として親しまれている「五大力尊仁王会」が営まれます。不動明王など五大明王の力を授かり、その化身・五大力菩薩によって国の平和や国民の幸福を願う行事です。その歴史は醍醐天皇の時代、西暦907年まで遡ることができます。この日に限って授与される災難・盗難除けのお札「御影(みえい) . . . 本文を読む
哲学者・池田 晶子は 2007年の今日2月23日に46歳で急逝しています。読売新聞(1998年4月1日)の記事に「現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していません。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きている・・・精神性の欠如という点で、 かなりレベルの低い時代と思う。・・医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという . . . 本文を読む
今日は天皇誕生日です。今上天皇が皇太子時代のお誕生日のすばらしいお言葉がありました。 今上陛下は平成二十九年二月二十三日「皇太子殿下お誕生日に際しての記者会見」で、歴代天皇が国民の為に般若心経を写経して祈られたことをおしゃっておられました。「・・災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め(注1),鎌倉時代の後嵯峨天皇(注2),伏見天 . . . 本文を読む
寛治二年1088二月二十二日、白河上皇が高野山参詣に出発されています。これが天皇の高野山参詣の始めとされています。このとき白河燈が灯されたとされます。(白河上皇高野山参詣記)
「寛治二年、歳次戊辰、二月二十二日己亥、天晴、今日太上皇為遂多年之蓄懐、参詣高野之聖跡、自去十三日有御潔斎、西面御門立犬禦禁機悪事、御進発大儀在昨日、而依雨延及今日、巳甦、摂政参入、・・・」
廿七日、甲辰・・・指廟堂参御 . . . 本文を読む
今日は蒙古再再襲来に備え孔雀経法七佛薬師法が宮中で修せられた日「七佛薬師法現行記」に「正応六年1293/二月二十二日 異国降伏の為、禁中に於いて同法(七佛薬師法)修せらる。」「孔雀経御修法記」に「正応六年1293/二月二十二日己酉、異国降伏の為、大聖院御所に於いて孔雀経法始めらる。阿闍梨は御室・・」天皇は伏見天皇。鎌倉幕府は久明親王、執権は北条貞時。四月には鎌倉大地震が起こりますが、当時はその予兆 . . . 本文を読む
「百歩の間持(たも)つすら 仏になるとのたまえば 萬行中の易行なり 唯 ひたすらに守るべし」(慈雲尊者の和讃終わり)未曽有因果経に「仏、波斯匿王に告げたまはく『世人、心粗なること例えば猿の如し。諸々の煩悩の為に動転せらる。この故に十善道を行ぜんとおもふ者は遅れてはならない。十善戒を修行するに三時という概念がある。まず、晨より食時にいたる(間、守るを)名つ゛けて上時とする。次に、(十善戒を)一食の間 . . . 本文を読む
弘法大師全集にある「上宮太子廟参拝記文」です。 「上宮太子廟参拝記文 嵯峨天皇の御宇、弘仁元年河内の国の聖所に於いて道場を建立し、籠居の處を卜する之間、上宮聖王の御廟に参詣する事一百箇日也。第九十六日の夜半一霊建有。御廟洞之内に微妙の小音有りて大般若理趣分を誦す。音に応じて光明在り。爰に空海祈念すらく、この妙事誰人の所為ぞや。願わくは我に示せと。所願に応じて廟窟の前に一の光明輪あり。美妙の音有り . . . 本文を読む
徳治三年(1307)二月二十二日は後宇多法皇が醍醐寺憲淳にあてて宸筆を発せられた日です。国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第一通目) 一通以下、「宸翰英華」等に依ります。後宇多上皇は醍醐寺報恩院憲淳に信頼を置いておられたが、憲淳が病篤となり上皇は書を以て憲淳の三宝院流を伝授してもらい三宝院流の正嫡となろうと考えられた。もともと後宇多上皇は退位後の徳治二年(1307) . . . 本文を読む
結論は「太子が子孫を絶やす算段をされたから」となります。
徒然草第六段「わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。」に以下のようにあります。
「前中書王(兼明親王(914~987)子は源伊陟)・九条太政大臣(藤原良経、子は六人)・花園左大臣(源有仁、子は四人)みな、族絶えん事を願ひ給へり . . . 本文を読む
・世田谷区太子堂円泉寺・川崎大師太子堂・源証寺(太子堂)足立区入谷2-15-25・明福寺(太子堂)江戸川区江戸川3-8-1・南蔵院しばられ地蔵(太子堂)葛飾区東水元2-28-25・高輪神社(太子堂)港区高輪2-14-18・富岡八幡宮(聖徳太子社)・圓成寺 町田市鶴間1210等 . . . 本文を読む