徳治三年(1307)二月二十二日は後宇多法皇が醍醐寺憲淳にあてて宸筆を発せられた日です。
国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡
国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第一通目) 一通
以下、「宸翰英華」等に依ります。
後宇多上皇は醍醐寺報恩院憲淳に信頼を置いておられたが、憲淳が病篤となり上皇は書を以て憲淳の三宝院流を伝授してもらい三宝院流の正嫡となろうと考えられた。もともと後宇多上皇は退位後の徳治二年(1307)七月、皇后の遊義門院が亡くなったことを悲しみ、東寺において出家し、翌年正月には、東寺において仁和寺真光院禅助から広沢流の伝法灌頂を受け、「金剛性」という法名を与えられました。しかしこれに先立つ徳治二年四月、後宇多上皇は醍醐寺報恩院憲淳からも伝法灌頂を受けており、醍醐寺にはその時の印信の案文が残されています。順番は逆になりましたがその後、後宇多上皇は出家をされ法皇となりました。そして徳治三年(1307)二月以降三度にわたり、憲淳から三宝院流の秘法相承を懇望する書状を出されています。それが国宝「後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡」(醍醐寺所蔵)とよばれる、後宇多法皇が憲淳に宛てた三通の書状の総称で、現在はこれらが巻子装一巻に装丁されています。その一通目がこれでこの中で後宇多法皇は、病気となった憲淳に対して次のように述べています。
憲淳の病を問わせられ、密教紹隆のために憲淳の寿命延長を祈念されるとともに、もし憲淳が平癒しなければ、法流を相承したいという考を持っている。三宝院流の嫡流を興隆したいという志を深く持っているのは、因縁によるものですでに(禅助から広沢流の)秘密の秘儀を極めている。附法の正統に列することができれば、必ずや真言密教の法流を一揆する(一つにまとめる)ことができる。子細はこの使いで来ている憲淳の弟子の道順に仰せつけているが、返事は口頭でなく書面で欲しい。東寺の長者には憲淳が出仕できなくとも名前だけでも連ねるのがよかろう。という趣旨です。
「所勞更發之由、道順語申、尤驚思給候、密教紹隆時分、慧命全被之條、殊に念願致所也、若猶不得滅者、法流付屬所之趣、念存知、始終細々可尋訪候、仍故、所進短札也、三寶院正流、深存興隆之志、宿縁会然,已極秘密奥旨了、列附法正脈者、可為法流之一揆歟、不可有相違者、可為令法久住之基候歟、委旨仰聞道順畢、返報之趣以言詞、相違之保、所存難知候故、所進短札也、抑東寺長者者、有其闕、病體出仕雖難叶、被懸其名之條、可為紹隆,為法流、又尤可補任歟之由、所思給也、随被申旨可令宣下候乎、敬白、
二月廿二日 金剛院」
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