今上天皇は上皇殿下時代のお誕生日に(平成29年2月23日)次のような大変感慨深いお言葉を発表されています(当時皇太子殿下は平成28年(2016)8月7日には岩瀬文庫を視察され、平成29年(2017)2月23日に記者会見で岩瀬文庫訪問時の印象を語られています。)
「昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました(注1)。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇(注2)を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇(注3),伏見天皇(注4),南北朝時代の北朝の後光厳天皇(注5),室町時代の後花園天皇(注6),後土御門天皇(注7),後柏原天皇(注8),そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰を拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。」
(注1) 後奈良天皇は天下大疫平癒を祈願され天文9年(1540年)6月17日心経を写経され全国一宮に納められていますが、その奥書に「ことし天下大疫、万民多く死亡におつ、朕民の父母として、徳覆ふ能はず、 甚だ自ら痛む、ひそかに般若心経一巻を金字に写し義堯僧正をして之を供養せしむ。こひねがはくは、ああ疾病の妙薬となさんことを、時に天文九年六月一七日」とあります。
(注2) 嵯峨天皇は第52代。大覚寺の「嵯峨天皇宸翰勅封般若心経 」は歴代の天皇陛下が拝んでこられました。
お大師様の「般若心経秘鍵・上表文」に「時に弘仁九年春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予購読の撰に範って、経旨の旨をつつ゛る。いまだ結願のことばを吐かざるに蘇生の族(やから)道に亍(たたず)む。夜変じて日光赫赫たり。是れ愚身が戒徳にあらず。金輪御信力の所為なり。但し神舎に詣せん輩は此の機鍵を誦し奉るべし。昔予鷲峯山の寧に陪べって、親り是の深文を聞きき。豈其の義に達せざらんはまくのみ。入唐沙門 空海上表」とあります。
注3)後嵯峨天皇。第88代。
神皇正統記には後嵯峨天皇を正統の天皇と評価して以下のように書いています。「抑もこの天皇、正路に帰りて、日嗣をうけ給ひし、先立ちて様々の奇瑞ありき。また土御門院阿波国にて告文をかかせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ひける、その御本懐すゑとほりにしかば、様々の御願を果たされしもあはれなる御ことなり。遂に継体の主としてこの御末(=後嵯峨の子孫)ならぬはましまさず。
壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身を慎み給ひければにや、天下を治め給ふこと四年。太子幼くましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給ひ、御出家の後も変はらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。」
「増鏡」には後嵯峨帝が何度も写経・仏事を執り行われたことが書いてありますがその中の一例を載せておきます。「その年(弘長三年)にや五月のころ、本院(後嵯峨)亀山殿にて如法経(法華経)書かせ給ふ。いとありがたく、めでたき御ことならんかし。」「法皇(後嵯峨)はまた文永七年神無月のころ御手ずから書かせたまへる法華経一部供養せさせたまふ。御八講、名高く才すぐれて賢き僧どもを召したり・・」
(注4)伏見天皇。第92代。
後深草天皇の第二皇子。大覚寺統の後宇多天皇のあとを受けて即位、両統迭立の最初となる。「伏見院宸記」。書道伏見院流祖。京極派の有力歌人。《玉葉和歌集》を勅撰。
妙蓮寺所蔵「国宝・伏見天皇宸翰法華経」あり。
また「伏見天皇宸翰御告文」という祈願文があります。これは伏見帝が国の平安を願い洪水等の災厄消除のための神佑を祈った願文です。以下「宸翰英華」によります。
「維、永仁三年1295歳次乙未九月朔十四日乙酉。天子熈仁、精誠を凝らして恐み畏み申す。天照大神・八幡大菩薩・賀茂・春日等大明神、日吉・山王七社・住吉・祇園・北野等神明を始め奉って廿二社殊には熊野三所権現凡そ式内式外一切垂迹の諸神,悉に明らけく聞食せ。熈仁不徳の身を以て天日嗣を受け・・・既に九年に及べり。その間随分に正直の誠を致して国家を安んずの志っを専らにす・・(しかし世が乱れている・・)。天下は一人の天下にあらず。即ち天下の天下なり。しかれば所請の心は身を先にする非ず。安全の思ひ偏に世のためなり。・・そもそも近曾霖雨相続して正に洪水に及べり。民屋流失し諸人漂没せり。・・願はくはこの祈念の力に依りて自今以降天災を払ひ未兆に於いて萬國無為ならしめむ。・・」
(注5)後光厳天皇は北朝四代。光厳天皇の皇子。1351年南朝によって兄崇光天皇が退位させられたが,翌年北朝再興のため足利義詮に擁立されて践祚。在位中南朝軍の攻撃を受け,近江や美濃に避難することもあった。新千載和歌集、新拾遺集を編。宝鏡寺・金戒光明寺・雲龍院開基。日蓮に大菩薩号授与。大覚寺に勅封般若心経あり。この心経ついては、続史愚抄に「延文六年1361五月二十九日、般若心経を宸翰せらる。一字三拝。紺紙金泥。是去年已来天下大疫す。因って弘仁・正元・正應等の例に拠られる所なり。・・」とあります。
(注6)後花園天皇。第102代。
続史愚抄には「寛正二年1461三月二十八日、この月天下疫鐖。自ら般若心経を写経し、三宝院義賢僧正に供養さす」とありこれが大覚寺に勅封心経として残っています。
(注6)後土御門天皇。第103代。
応仁の乱当時に御在位。皇室財政は破綻し厳しいご生活を送られた。続史愚抄には「文明三年1487八月八日、大覚寺に大覚寺心経を召して、今日より七日、安楽光院において諸人に拝せしむ。これ疫病を攘ふ為の叡慮なり。・・」とあります。また無題 (『賜足利義政』とも)と題する詩があります。「殘民 爭ひ採る 首陽の薇。處處 廬を閉ぢ竹扉を鎖す。詩興 吟は酸なり 春二月。滿城の紅綠 誰が爲にか 肥ゆ」。これは、後花園天皇が足利義政を諫めたもの。義政は、長禄・寛正の飢饉に際しても、「花の御所」を修築する等、奢侈に耽る生活を続けたことに対する後花園天皇の戒めの詩。義政はこれを見て大いに恥じ入り、御所の造営を中止しています。(『長禄寛正記』)
(注7)後柏原天皇。第104代。
後柏原天皇御宸翰般若心経奥書は国重要文化財です。
「宸翰英華」によるとこの奥書の内容は以下のようになっています。
「宸筆般若心経奥書(案)
頃年、小瘡流行、都鄙愁苦久円矣。之に依りて蒼生を利する為に聊か丹精を凝らし般若の真文を写し仁和の霊寺に祷る。仰ぎ願はくは三寶知見し萬民安楽乃法界平等利益。 大永五年・・月」
(後柏原天皇の時代、大永五年に疱瘡流行し都鄙大いに苦しんだ。天皇は心経を書写して仁和寺及び延暦寺に納め給ひ、悪疫の終焉を御祈請あらせられた。三條西實隆の日記によれば、同年十一月十七日天皇は實隆に宸翰の紺紙金泥の心経を拝見せしめられその後、奥書のことに関して諮らせられた。・・)
「昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました(注1)。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇(注2)を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇(注3),伏見天皇(注4),南北朝時代の北朝の後光厳天皇(注5),室町時代の後花園天皇(注6),後土御門天皇(注7),後柏原天皇(注8),そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰を拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。」
(注1) 後奈良天皇は天下大疫平癒を祈願され天文9年(1540年)6月17日心経を写経され全国一宮に納められていますが、その奥書に「ことし天下大疫、万民多く死亡におつ、朕民の父母として、徳覆ふ能はず、 甚だ自ら痛む、ひそかに般若心経一巻を金字に写し義堯僧正をして之を供養せしむ。こひねがはくは、ああ疾病の妙薬となさんことを、時に天文九年六月一七日」とあります。
(注2) 嵯峨天皇は第52代。大覚寺の「嵯峨天皇宸翰勅封般若心経 」は歴代の天皇陛下が拝んでこられました。
お大師様の「般若心経秘鍵・上表文」に「時に弘仁九年春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予購読の撰に範って、経旨の旨をつつ゛る。いまだ結願のことばを吐かざるに蘇生の族(やから)道に亍(たたず)む。夜変じて日光赫赫たり。是れ愚身が戒徳にあらず。金輪御信力の所為なり。但し神舎に詣せん輩は此の機鍵を誦し奉るべし。昔予鷲峯山の寧に陪べって、親り是の深文を聞きき。豈其の義に達せざらんはまくのみ。入唐沙門 空海上表」とあります。
注3)後嵯峨天皇。第88代。
神皇正統記には後嵯峨天皇を正統の天皇と評価して以下のように書いています。「抑もこの天皇、正路に帰りて、日嗣をうけ給ひし、先立ちて様々の奇瑞ありき。また土御門院阿波国にて告文をかかせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ひける、その御本懐すゑとほりにしかば、様々の御願を果たされしもあはれなる御ことなり。遂に継体の主としてこの御末(=後嵯峨の子孫)ならぬはましまさず。
壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身を慎み給ひければにや、天下を治め給ふこと四年。太子幼くましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給ひ、御出家の後も変はらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。」
「増鏡」には後嵯峨帝が何度も写経・仏事を執り行われたことが書いてありますがその中の一例を載せておきます。「その年(弘長三年)にや五月のころ、本院(後嵯峨)亀山殿にて如法経(法華経)書かせ給ふ。いとありがたく、めでたき御ことならんかし。」「法皇(後嵯峨)はまた文永七年神無月のころ御手ずから書かせたまへる法華経一部供養せさせたまふ。御八講、名高く才すぐれて賢き僧どもを召したり・・」
(注4)伏見天皇。第92代。
後深草天皇の第二皇子。大覚寺統の後宇多天皇のあとを受けて即位、両統迭立の最初となる。「伏見院宸記」。書道伏見院流祖。京極派の有力歌人。《玉葉和歌集》を勅撰。
妙蓮寺所蔵「国宝・伏見天皇宸翰法華経」あり。
また「伏見天皇宸翰御告文」という祈願文があります。これは伏見帝が国の平安を願い洪水等の災厄消除のための神佑を祈った願文です。以下「宸翰英華」によります。
「維、永仁三年1295歳次乙未九月朔十四日乙酉。天子熈仁、精誠を凝らして恐み畏み申す。天照大神・八幡大菩薩・賀茂・春日等大明神、日吉・山王七社・住吉・祇園・北野等神明を始め奉って廿二社殊には熊野三所権現凡そ式内式外一切垂迹の諸神,悉に明らけく聞食せ。熈仁不徳の身を以て天日嗣を受け・・・既に九年に及べり。その間随分に正直の誠を致して国家を安んずの志っを専らにす・・(しかし世が乱れている・・)。天下は一人の天下にあらず。即ち天下の天下なり。しかれば所請の心は身を先にする非ず。安全の思ひ偏に世のためなり。・・そもそも近曾霖雨相続して正に洪水に及べり。民屋流失し諸人漂没せり。・・願はくはこの祈念の力に依りて自今以降天災を払ひ未兆に於いて萬國無為ならしめむ。・・」
(注5)後光厳天皇は北朝四代。光厳天皇の皇子。1351年南朝によって兄崇光天皇が退位させられたが,翌年北朝再興のため足利義詮に擁立されて践祚。在位中南朝軍の攻撃を受け,近江や美濃に避難することもあった。新千載和歌集、新拾遺集を編。宝鏡寺・金戒光明寺・雲龍院開基。日蓮に大菩薩号授与。大覚寺に勅封般若心経あり。この心経ついては、続史愚抄に「延文六年1361五月二十九日、般若心経を宸翰せらる。一字三拝。紺紙金泥。是去年已来天下大疫す。因って弘仁・正元・正應等の例に拠られる所なり。・・」とあります。
(注6)後花園天皇。第102代。
続史愚抄には「寛正二年1461三月二十八日、この月天下疫鐖。自ら般若心経を写経し、三宝院義賢僧正に供養さす」とありこれが大覚寺に勅封心経として残っています。
(注6)後土御門天皇。第103代。
応仁の乱当時に御在位。皇室財政は破綻し厳しいご生活を送られた。続史愚抄には「文明三年1487八月八日、大覚寺に大覚寺心経を召して、今日より七日、安楽光院において諸人に拝せしむ。これ疫病を攘ふ為の叡慮なり。・・」とあります。また無題 (『賜足利義政』とも)と題する詩があります。「殘民 爭ひ採る 首陽の薇。處處 廬を閉ぢ竹扉を鎖す。詩興 吟は酸なり 春二月。滿城の紅綠 誰が爲にか 肥ゆ」。これは、後花園天皇が足利義政を諫めたもの。義政は、長禄・寛正の飢饉に際しても、「花の御所」を修築する等、奢侈に耽る生活を続けたことに対する後花園天皇の戒めの詩。義政はこれを見て大いに恥じ入り、御所の造営を中止しています。(『長禄寛正記』)
(注7)後柏原天皇。第104代。
後柏原天皇御宸翰般若心経奥書は国重要文化財です。
「宸翰英華」によるとこの奥書の内容は以下のようになっています。
「宸筆般若心経奥書(案)
頃年、小瘡流行、都鄙愁苦久円矣。之に依りて蒼生を利する為に聊か丹精を凝らし般若の真文を写し仁和の霊寺に祷る。仰ぎ願はくは三寶知見し萬民安楽乃法界平等利益。 大永五年・・月」
(後柏原天皇の時代、大永五年に疱瘡流行し都鄙大いに苦しんだ。天皇は心経を書写して仁和寺及び延暦寺に納め給ひ、悪疫の終焉を御祈請あらせられた。三條西實隆の日記によれば、同年十一月十七日天皇は實隆に宸翰の紺紙金泥の心経を拝見せしめられその後、奥書のことに関して諮らせられた。・・)