ここ数年「年ごとに吾苦しみは深くして・・」という気持ちにもさせられることもありました。しかし以前私淑するA師に「あなたの祈願はお大師様にとどいてない。お蔭を頂くには声を振り絞るようにして必死に最低千遍はお唱えしなければならない・・」と言われたことを思い出してここ数日小声ではありますが声を振り絞って拝み、同時にその前後では額突いて拝んでもいました。するとまことにありがたいことに長年の懸案事項が薄紙を剝ぐように解決しつつあります。以前を大きく上回る予想もしない有難い極みのお陰も出ました。拝み方は寔に不思議です。今朝などは朝日がお大師様の掛け軸にあたりお大師様が輝いておられて其の時「大師信者たる者は既に素晴らしいお蔭をいただいているのだから、そのお礼として一生お大師様の救世済度のお手伝いをしなければならないのだ」と思い出した次第です。
以前福聚講で、「額突くお参りの勧め」という記事を出していましたので再度載せておきます。
仏典ではお釈迦様の前に出れば誰もが五体投地をしています。「額突く」のはこの略形態です。ましてや立ったままお釈迦様を拝んだなどという例はありません。
そうすれば現在われわれがお寺でボーっと立ったまま拝んでいるのは全く不謹慎ということになります。
1、昔はお参りはぬかずくのが当たり前でした。以下古典の例を少し出しておきます。
・「更級日記」「等身に薬師仏をつくりて、 手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、『京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ。』と、身を捨てて額ぬかをつき、祈り申すほどに、十三になる年、 のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。」
・「源氏物語・夕顔」「明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。(「御嶽(みたけ)」に詣に先立ち、読経礼拝などを行う様子が伺われる)」
・「枕草子 あはれなるもの」「うち行ひたる(勤行している)暁のぬかなど、いみじうあはれなり」
2、最近でも五木寛之「ゆるやかな生き方」に「・・以前奈良の唐招提寺を訪れた時の記憶がよみがえってきたした。そのときは瀬戸内寂聴さんとご一緒でしたが衣の袖を翻して寂聴さんがすっくと起ちあがり、それから軽やかに体を投げ出して礼拝されたのです・・」とあります。なおここには韓国などでも今もって仏前に「ぬかずく」のが当たり前に行われている、とあります。たしかに十数年前秩父三十四観音をお詣りしたとき確かに韓国人らしき女性グループは札所でぬかずいて拝んでいました。
当方も以前四国遍路の時、三十四番種間寺大師堂の前で朝方、老婆がぬかずいて白髪を振り立てて一心に拝んでいる姿を見ました。人目など気にしていません。傍目にもよほど思い詰めている様子が分かりました。そしてこのように必死に祈願されれば御大師様はきっと願いを聞き届けてくださるに違いないと思わせる鬼気迫るものがありました。
3、私も札所を回る時等は必ず敷物を持参して、その上に土下座しぬかずいて読経します。こうするとなにか拝んだ気持ちがします。どうせ拝むなら昔の人の様に額つ゛きたいものです。気持がまったく違います。