「筑前明月女(妙好人伝)」
「筑前国博多津柳町薩摩屋に明月といふ遊女ありき。その人、いかなる因縁にや、いつしか世のはかなき事をさとりて、そこなる万行寺にまうで、時の住僧正海法梁に女人往生のことを尋ねければ、住持、ねむごろに弥陀のいはれを教誨せられければ、立地に無二の信者となりて、歓喜のこころ日々にふかくなりて、朝な朝な万行寺に参詣しけるが、未明にして門ひらけざる時は地にひれ伏し外より拝し、又其の日の客によりて寺へ詣でがたき時は、寺までの足数をためし置きて吾家の庭にて夫ほど歩行して遥拝をせしとぞ。
時に天正六年(1578、信長が勢力を誇っていた)の春、病に臥、本復せざらん事を察し、かねてたのみ思へたる人に死後の事どもこまごまと語ひ『我が死骸は万行寺にをさめ給へかし』といひおきて、終に空敷なりぬ。人々遺言にまかせ万行寺に葬るに、数月をへずしてその墓より一茎の蓮生じ、日を経るにしたがひ、花葉池中より生出しに異ならず。是を聞きつたへ、諸方より追々参詣群衆す。よって領主の役人、怪しみて是をあばきみるに、其の根くだんの明月が口中より出たり。これ誠に世のかくれなき事なりき。されば人口に膾炙するにみに非ず。博多記幷石城志にも載せて、今の世までも奇談となれる事なり。つらつら案ずるに、普賢菩薩は室の游君と現じ(法然上人が室の津で遊女を教化したこと)衆生を導引給ひしも、かかることにやあらん。ただし浄土真宗には、唯佛願の不思議を尊みて機邊の奇特をかたるをよしとせず。されど法徳に約して又あふぎ貴むべき義なきにしもあらず。時にこの蓮華幷に錦の帯、今に万行寺の宝庫にをさまれり。此の明月女の奇瑞を見聞の人々感じ入りて、法義にもとずける人少なからずとぞ。(この事、万行寺の境内に石碑をたて諸人にしらしむる処なり。http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/2021%201125%20IMG_1957%20(69)1.gif
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因みにしるす。古の讃岐の国に源太夫と云ふ人有り。此の人は岩の上にて西方に向ひて往生せし時、その死骸の口より青蓮華生ぜしこと、日本往生伝に載す(不明)。又住蓮・安楽(法然門下で死罪に処せられた僧。『愚管抄』において、法然の建永の法難をとりあげて「終二
安楽住蓮頸キラレニケリ、法然上人ナカシテ京ノ中ニアルマシ輪テヲハレニケリ、カ丶ル事モカヤウニ御沙汰ノアルニ、スコシカ・リテヒカヘラル丶トコソミユレ、」と記している。)死刑に臨む時、口より蓮華を生ずと古徳傳(拾遺古徳傳)に見えたり。尚又、天竺往生伝に蓮華の徴あること数多出せり。事繁ければ爰に略す。これらの奇瑞は疑ひ深き我等をして信を得せしめるんための善巧なるのみ。」