福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・40終

2025-02-09 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・40

 

二には感應の測り難きを明かして以て疑ふこと勿れと勧む。

「念念勿生疑 觀世音淨聖 於苦惱死厄 能爲作依怙」

次上の文には妙音の三句に境地を挙げ終りて後に常念せよと勧め玉ふ(妙音觀世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念)。今の文には先ず疑ふこと勿れと誡めて、次に観世音等の三句(觀世音淨聖 於苦惱死厄 能爲作依怙)に感應を陳ぶ。是如来の巧説。又譯人の巧なり。「念念」とは念念相続すること、水の流れの相継で日夜に息(やす)まざるが如くにして更に餘念を雑へず、但一心三観をのみ修せよ。若し此の心地に於いて一念なりとも餘念交(まじは)らば即ち是疑なり。何となれば両端を持するは是猶豫不定の疑なるが故に。若し一念の疑もなくば是則観音大士、念念に現るる者なり。

問、一心三観は常住の境智なり。然れば何の遷流の念あってか念念と云べき。頗る思ひがたし。

答、来問の如く、一心三観は常住の境智なること更に論ずるに足らず。されども、等覚圓満の終までは生死の長夜に眠って無明の大夢未だ醒めざるが故に微細の遷流を免るることあたはず。況や名字觀行等をや。今は因位の衆生に示し玉ふ、故にかくのごとく云なり。

「觀世音淨聖」の下は大士の徳の大なることを明かして、疑を息めよと勧るなり。此の中に「觀世音淨聖」の一句は徳を具せる人を明かす。「淨聖」とは観音大聖は自性清浄の本性の三諦に於いて観達自在なるが故に「淨」と云。「聖」とは正の義なり。中道正観に住して二諦(空・假)に偏せざるが故に聖と云。別圓(蔵教・・小乗。通教・・大乗、小乗に通ずる教え。別教・・大乗のみ。円教・・すべてを包摂する円満な教え)の地住已上の菩薩を聖と云は此の意なり。

若し秘密の釋ならば一切衆生の自性清浄心を観音とす。是自心の體性たる八分の肉團即ち未敷の蓮華の形なり。世間の蓮華の其の性清浄にして無垢無染なるが如く、自心の本體は無始より已来、一點の塵垢もなくして本来清浄なり。凡夫の妄念は客塵にして、本有の垢穢不浄にあらず。故に浄と云。六大周遍の體なるが故に正等にして偏なき義を以て「聖」と云。此の聖を覚って観達自在なるが故に観自在と云なり。

「於苦惱死厄 能爲作依怙」とは、感あれば必ず應じ玉ふ徳を明かす。観音大士は二種生死の苦悩死厄の中に於いて、三世に常に一切衆生の為に父の如く母の如くして、依るべく怙べき所と成玉ふ。若し衆生相続して憶念し称名に専注して疑惑なき時は、感應道交して其の利益必ず彰るべきなり。凡そ疑に三種あり。一には人を疑ふ。謂く能説の師、若し邪師なるべき歟と疑ふなり。二には法を疑ふ。謂く所説の法、若し邪法あんるべき歟と疑ふなり。三には自を疑ふ。謂く我是愚鈍障重不信懈怠なり、若しは法器に非ざるべしと疑ふなり。今の文は但人を疑ふこと勿れと勧む。謂く大士の利益廣大なりと信ぜよと云なり。此れに依りて餘の二の疑自ら息む。謂く大聖の利物の巨大なるは自行の三観三諦(「空・仮・中)の法甚深なるが故なりと信ず。是法の疑息むなり。又既に二種生死(分段生死・変易生死)の中の人の為に依怙と成玉ふ。我等が愚鈍にして障り重きも利益を被るべしと信ず。此れ自の疑息むなり。

上の一頌(妙音觀世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念)とこの一頌(念念勿生疑 觀世音淨聖 於苦惱死厄 能爲作依怙)とを通じて釋せば上には勧めて常念せしめ、此には疑ふこと勿れと勧め玉ふ。疑ひ去れば念自成す。受持を勧ること爰に満足す。

 

二には供養を勧るを頌す。

「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮」

是も又上の如く初めの三句(具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量)には功徳を明かし、後の一句(是故應頂禮)は頂禮せよと勧む。頂禮は是身業の供養なり。身には必ず口を具す。身の頂禮も意に欲せざれば作すことなし。故に身業を挙げて意の恭敬、口の称讃等を兼ね、乃至香華等の五塵の供養を兼顕すなり。

「具一切功徳」とは、総じて一切の功徳を示す。通じて福智慈悲等の諸の功徳を兼ねるなり。

「慈眼視衆生 福聚海無量」とは別して功徳を示す。慈眼とは、慈は衆生に樂を與る心なり。外の衆生の機に応ずるが故に青蓮の如き眼を以て見玉ふなり。又慈は諸善の根本なり。是佛の心なるが故なり。千手千眼大悲心陀羅尼經に曰く、佛心とは大慈悲心是なりといへり(佛説觀無量壽佛經「佛心者大慈悲是。以無縁慈攝諸衆生。作此觀者。捨身他世生諸佛前。得無生忍。是故智者應當繋心諦觀無量壽佛」。)。

「福聚」とは万行を皆通じて福聚と云。故に万行の廣大なるを「海無量」と云。大海は深廣にして涯もなく(廣)、底もなし(深)故に亦三観の高廣をも兼顕すべし。

「是故應頂禮」とは上の如く、大士の功徳廣大なるが故に頂禮等の供養を作すべしとなり。

(已上偈頌了)。

 

三には開品の功徳に二つ。初めには持地の歎(持地菩薩開品の功徳を歎ずるなり)。

「爾時持地菩薩即從座起。前白佛言。世尊。若有衆生。聞是觀世音菩薩品自在之業普

門示現神通力者。當知是人功徳不少。」

「持地菩薩」とは山王院の八帙の御書に曰、持地菩薩とは地蔵菩薩也(已上)。台家の末學に云ふ、六地蔵の中に持地地蔵有り(已上)。凡そ六地蔵の本説未詳。或は云、地蔵十輪経に出たりと。今大蔵の中の大集地蔵十輪経十巻(玄奘訳)・大方廣十輪経を考ふるに六地蔵の名字無し。又地蔵因縁十王経に豫天賀地蔵等の六の名字を出すと雖も彼の經は偽造なり。何を以てか証拠とせん。愚按ずるに胎蔵の曼荼羅の地蔵院に九尊あり。曰、地蔵・日光・堅固深心・持地・寶手・寶光・寶印手・不空見・除一切憂冥なり。此の中に青龍の法全の胎の儀軌に、唯地蔵・寶處・寶光・持地・寶印手・堅固意の六尊の印言を出せり(大毘盧遮那成佛神變加持經蓮華胎藏悲生曼荼羅廣大成就儀軌供養方便會 ・法全「日光明菩薩堅固心菩薩并持地菩薩寶手菩薩等 寶光明菩薩寶印手菩薩 不空見菩薩」)。此の六尊を六道に配するに其の義尤も相應せり。然らば此を六地蔵として其の中の持地なりと云意なるべし。さて持地の名字を云はば、大日経の疏の第十に曰、猶大地の万物を持し、佛地の衆生を持するが如く、此の菩薩も亦尒(しか)なり(大毘盧遮那成佛經疏・普通眞言藏品第四「猶如大地持萬物佛地持衆生此菩薩亦爾也」)。已上。文句に寶雲經を引いて曰、菩薩に十法有り。持地三昧と名く。世間の地の如し。一には廣大(菩薩の徳も廣大無邊なり)二に衆生の依(菩薩も衆生の所依と成りて求むることあれば必ず輿ふるなり)三には好悪無し(大地の一切に於いて好むこともなく悪むこともなきが如く、菩薩も衆生に於いて好んずることも悪むこともなし)四には大雨を受く(菩薩も諸佛の法雨を受けてあまさず)五には艸木を生ず(菩薩の心も能く一切の修行を生ずるなり)六には種子の所依(菩薩も能く一切の法を生ず)七には衆寶を生ず(菩薩も能く諸徳を生ず)八には諸藥を生ず(菩薩も能く法の藥を生ず)九には風も動ぜず(利衰毀誉稱譏苦楽の八風も菩薩の心を動ずること能はず)十には獅子吼亦驚かすこと能はず(諸の外道も菩薩の正見を驚かすことあたはず)亦尒(しか)なり已上。(法華文句記・湛然述・釋普門品「寶雲經云。菩薩有十法名持地三昧。如世間地。一者廣大。二衆生依。三無好惡。四受大雨。五生草木。六種子所依。七生衆寶。八生衆藥。九風不動。十師子吼亦不能驚。菩薩亦爾」。)密教には観音の深重の大悲を地蔵と建立す。今持地菩薩聞品の功徳を讃嘆せらるること此の故なり。

「聞是乃至之業」(聞是觀世音菩薩品自在之業)とは前番の問答を聞くなり。此の中に「自在之業」とは凡夫の身は頓愛の為に潤されて有漏の業を因とし、四住地の煩悩(見一切處と欲愛と色愛と無色愛との煩悩能く衆生を縛して三界に住せしむ。故に四住地と名く。此の中に初めの一は見惑、後の三は思惑なり。)を縁として分段生死を受く。是の故に生死に繋がれて自在を得ず。観音は十界の機を度せんが為に慈悲力を以て非漏非無漏(中道)の業を潤して衆生の機感を縁として、其に随って生を受け玉ふが故に煩悩に累はさるる事なし。是を自在業と云。

「普門示現神通力者」とは後番の問答を聞くなり。

「當知是人功徳不少」とは正しく歎ずる言なり。

 

 

二には品を聞て利益を獲。

「佛説是普門品時。衆中八萬四千衆生。皆發無等等阿耨多羅三藐三菩提心」

「八萬四千衆生」とは觀心に釋せば、心中に八万四千の塵労を具足す。若し諸法實相の心を發せば即ち転じて八万四千の波羅蜜と成るなり。其の八万四千の塵労煩悩とは、貪・瞋・痴・慢・疑・身見・見取・戒禁取・邊見・邪見の十煩悩を互いに具足すれば百と成る。身口七支(殺盗婬妄語両舌悪口綺語)に歴れば七百と成る。三世に旦(わた)して二千一百と成る。十界に歴れば二萬一千と成る。三毒と等分(三毒具足)とに約すれば八万四千と成るなり。

「無等等」とは文句には三諦に約して釋す。初に空の釋とは、九界の心は真如法界の理に等しきことあたはず。但し佛界の心(諸法実相の心)のみ等しきことを得(此れは横に約す。佛心を理に望むるに其の義均等なるが故に)。次に假の釋とは畢竟の理は法界に周遍して此の外に物なければ無等と云。初住(十信を得たのち、界外の無明を伏することに向かうその最初の位)に始めて畢竟の理を知見するに能く理に等し。故に無等等と云(是は假の釋なり。又初心と極理と対するが故に竪の義なり)。次に中の釋とは、心と理と俱に中道なれば畢竟じて不可得なり。不可得なるが故に不可説なり。不可説なれども強いて説て此の心此の理に等しと説く。不可説なるは無等なり。等しと説くべき言語なきがゆえに是を無等と云。此の無等の理に等しと云。故に無等等と云なり。義疏の意は二乗は三乗をば出過すれども猶其より上の法あるが故に無等に非ず。佛は極頂上なり、故に無等と云。此の佛心を求るが故に等と云ふ。佛に等しき義を以て無等等と云。

「阿耨」とは「阿」此には無と云。

「耨多羅」此には上と云。

「三藐」此には正等と云。

「三菩提」此には正覚と云。

合しては無上正等正覚の義なり(等は平等の義なり。故に𦾔譯には遍と云。覚、𦾔譯には知と云)。二乗と菩薩とには分に覚りあれども上ある覚りなり。唯し佛のみ無上覚なり。凡夫は邪覚にして正覚に非ず。二乗は偏覚にして等覚に非ず。唯佛のみ正等覚あり。故に無上正等正覚と云。

「發心」に三あり。一には名字の發。即ち五品の弟子(五十二位の前に五品弟子位が附加)なり。二には相似の發。即ち十信の六根浄なり。三には分眞の發。即ち初住已上なり。即ち今指す所の發心なり。

普門品一品文を逐ひ句に随って鈔解すること了んぬ。此れ併しながら天臺の釋の意なり。但し信男信女の浄心を發さしむべきことあれば、繁を顧みずこれを註す。希はくは後の覧ん人我を罪すること勿れ。

妙法蓮華經秘略要妙巻之十終

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