今日は御廟を開扉して大師号を読み上げ御衣をお着せ申し上げた日
高野春秋(延喜二十一年921十月)「二十七日、勅使及び観賢座主奥院に詣ず。・・勅使及僧都唐櫃を昇持せしめ御拝殿に著く。観賢僧都座より起ち欽びて廟扉を排し勅衣を備奉る。扶閑宣命を読み上ぐ『勅す。琴絃旣に絕へ、遺音更に淸し。蘭叢(らんそう)凋むと雖も、餘香猶ほ播しく。故贈大僧正法印大和尙位空海、煩惱を鎖弃(しょうき)し、驕貪を抛却して、三十七品の修行を全うし、九十六種の邪見を斷たつ。密語を受る者、山林に滿ち、眞趣を習ふ者もの、淵藪を成す。況んや太上法皇久しく其の道を味ひ、其の人を追念す(注1)。誠に天に浮の波濤と雖も、何ぞ石を積の源本を忘れん。宜しく崇餝の諡を加へ、弘法大師と號すべし。延曆二十一年十月二十一日 少納言朝臣維助奉』。
秘記に云、于時、観賢、定躯を拝見すること能はず。猶雲霧に隔つ。退きて閑眼合掌禮拝恭敬発露懺悔して自ら言く『吾母の胎内を出しより已降、一度たりとて禁戒を犯さず如法に修道し梵行無瑕なり、況や遺教を奉じ歳月を累ぬるをや』、熱啼黙祈矣。頃刻間、聖容依然顕現す。恰も霧斂月影の如く拝見することを得。頭髪長生して廻り、御衣朽損じて定躯に逼附す。観賢則ち剃刀を催把して膝歩頓首し、長髪を剃除し奉り、故衣を扇去し御新裁の勅衣を著せ奉り畢り、作禮して退き、勅使に拝見せしむ。
淳祐童子傍に在り、盲人の如し、仍に啼泣慨嘆す、賢師、手を握り大師の尊膝に触摩せしむ。その手、一生芬郁たり(注2)。観空法師(注3)、その列に在りながら聾の如く盲のごとく猶石室を隔つるが如し。」
(注1)宇多上皇は益信に帰依し落飾。
(注2)淳祐筆の聖経は今も石山寺に「国宝・淳祐内供筆聖教(薫聖教)」として残る。
(注3)蓮台寺僧正・寛空のこと。寛空は宇多法皇から伝法灌頂を受けている。観賢の奥の院開扉に淳祐と共に随侍。のち金剛峯寺座主・東寺長者・仁和寺別当。