鈴木大拙より西田幾太郎にあてた手紙(1901、1、21)
「予は近頃「衆生無辺誓願度」の旨を少しく味ひ得るやうに思ふ、大乗仏教がこの一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す、げに無辺の衆生を教ふべきなくんば、この一生何の半文銭にか値ひすとせん、・・・真誠の安心は衆生無辺誓願度に安心するにあり、これを離れて外に個人の安心なるものあることなし、・・予は始めて四句の願を聞きしとき、「煩悩無尽誓願断」が第一に来てその次に「衆生・・」が来るのが当然と思いなりき、今にして之を考ふれば予は大いに誤まれり、「衆生無辺誓願度」のために「煩悩無尽誓願断」なり、もし第一願なくば煩悩何が為に断ずる必要あらん、否、煩悩を断じ得る最条件は実に度衆生の願にあり、・・・」
「予は近頃「衆生無辺誓願度」の旨を少しく味ひ得るやうに思ふ、大乗仏教がこの一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す、げに無辺の衆生を教ふべきなくんば、この一生何の半文銭にか値ひすとせん、・・・真誠の安心は衆生無辺誓願度に安心するにあり、これを離れて外に個人の安心なるものあることなし、・・予は始めて四句の願を聞きしとき、「煩悩無尽誓願断」が第一に来てその次に「衆生・・」が来るのが当然と思いなりき、今にして之を考ふれば予は大いに誤まれり、「衆生無辺誓願度」のために「煩悩無尽誓願断」なり、もし第一願なくば煩悩何が為に断ずる必要あらん、否、煩悩を断じ得る最条件は実に度衆生の願にあり、・・・」