福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十善戒和讃略解(慈雲尊者・釋雲照)、13

2020-02-13 | 十善戒

班足王の猛悪も 実語の徳に感悟して 九十九王の命をも 放ちて道に入りにけり
これは不妄語の徳を称えるもの。(以下の話は「仁王般若波羅蜜經」等にあります。太宰治の「走れメロス」の元になった説話ともいわれています
昔天竺に班足王という悪王がいて、普明王という聖王の不妄語の徳に感じて自ら悔いて仏道に入ったという因縁を述べて不妄語の美徳を讃嘆し給えるもの。
昔印度で普明王という持戒堅固な王がいたが、城を出でて園に逍遥に行こうとしたとき、貧しい婆羅門が現れて王に喜捨を求めた。普明王は、逍遥から帰りにこの婆羅門に喜捨することを約して園に向かった。一方、班足王という王は外道の教えを受けて、百人の王の首を取り天に祀ることを目指していた。
あと一人の王の首を残すのみとなっていたところへ、この普明王を見つけて捕え九十九王の中に置いた。すると普明王が大泣する。訳を聞くと「我死を恐れず、甚だ信を失うことを恐れる。我うまれてこのかた妄語せず。しかるに今朝婆羅門に遇い園より帰りに喜捨することを約せしが、無常を思わざる罪、彼が心に背き自ら妄語の罪を招く、故に泣くのみ」という。班足王は「ならばこれから帰りその婆羅門に喜捨し七日のうちにかえるべし。」といって普明王を釈放する。普明王は例の婆羅門に喜捨し後継の皇太子を立てまた班足王の所へ帰ろうとした。部下は、「奇兵を置き班足王に対すれば恐れることなし」と諫めるが普明王は「実語は天に昇る梯なり。実語は小にして大なり。妄語は地獄へ落ちる。寧ろ身命を棄つとも、心に悔悟あることなし」と偈を説いて、班足王の所へ帰った。班足王は歓喜して「汝は実語の人なり。一切の人身命を惜しむ。汝は死より脱することを得て還り来たって信に赴く
、汝はこれ大人なり。」という。普明王、実語を讃嘆して曰く「実語はこれ人とす、非実語は人にあらず」と。かくのごとく種々に実語を讃じ、妄語を呵す。班足王これを聞き、身心清浄になり、普明王に告げて曰く「汝よくこれを説けり、今相放つべし。九九王もまた汝に施すべし。意に任せて本国に還るべし」と。ここにおいて百王おのおの本国へ帰ることを得たり。
ある人曰く「不殺生、不邪淫等は受持するに難からず、しかるに商業上社交上は妄語せざるを得ず」と。しかし予(釈雲照)はこれにこたえて曰く「有る篤信の居士は、『十善戒を受戒して以来常に身を慎み他を欺かず粛然として事を執り、人に接するに信切をもってする故、不良の客は自ら来ず、是に反し篤実温厚の客は予の親切欺かざるを知り招かざれども来たり集まる。是誠に十善の功徳と深く感悦にたえず』というなり」


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