観音様の霊験で首がつながった話
平盛久は由比ガ浜で斬首されるところ清水の観音様に白衣に裸足で千日詣をしていたお陰で助かります。これは平家物語にあり鎌倉にも碑があります。上野清水観音堂の記録には此の秘仏ご本尊はこの盛久の念持佛とされています。以下にあります。
1,長門本平家物語巻二十、「・・主馬八郎左衛門(平)盛久、京都に隠れ居りけるが年来の宿願にて等身の千手観音を造立し奉りて、清水寺の本尊の右わきに居奉りけり、盛久ふるにも照るにもはだしにて、清水寺へ千日、毎日参詣すべき心ざし深くして、あゆみをはこび年月を経るに人是を知らず、平家の侍、打もらされたる越中次郎兵衛盛次(平盛嗣鎌倉で斬首)、悪七兵衛景清(藤原景清1195年源頼朝に降伏,八田知家に預けられたが断食して死んだ)、主馬八郎左衛門盛久、是等は宗徒のもの共なり、尋出すべき由、兵衛佐殿(頼朝)、北条四郎時宗に仰せ含められけり。主馬八郎左衛門盛久は京都に隠れ居たる由聞えけれど、北条京中を尋ねもとめけれども更に尋ね得ず、ある時、下女来たりて、誠にや主馬八郎左衛門盛久を御尋さふらふなるか、かの人は清水寺へ夜ごとに詣給ふなりと申しける。・・ある時、白直垂のゑほれたるにはだしにて盛久詣けるを召捕て兵衛佐殿へ奉る。盛久まだしらぬ東路に千行の泪を拭ひ、暁月に袂をうるほして、我清水寺の霊場に千日参詣の志を運、多年本尊に祈奉る、信心の真をこらしつるに日詣むなしく成ぬ。あはれ西国の戦場に軍破れて人々海に入給ひし時、同じく底の水屑とも成たりせば今日かかるうきめにはあはじものをと、おもはぬ事もなく、思ひつつ゛てけて歎き暮し、あしたの露に命をかけ、日数も漸く重れば鎌倉にも下着しぬ。・・はやく斬刑に従ふべしとて土屋三郎宗遠に仰せて首を刎ねらるべしとて文治二年六月二十八日に盛久を由比ガ浜に引きすへて、盛久西にむかひて念仏十邊計申しけるが、いかが思ひけん、みなみに向て又念仏二三十邊もうしけるを、宗遠太刀をぬき頸をうつ。その太刀中より打をりぬ、又打太刀も目ぬきよりをれにけり、不思議の思ひをなすに富士のすそのより光二すじ、盛久が身に差あてたりとぞ見えける。宗遠使者をたて此の由を兵衛佐殿に申す、また兵衛佐殿の室家の夢に、墨染の衣きたる老僧一人出来て、盛久斬首の罪にあてられ候が、まげて宥め候べきよし申す。室家夢の中に、誰人にておはするぞ、僧もうしけるは、我清水邊に候小僧なりと申すとおほじて夢覚めて、兵衛佐殿に、かかる不思議の夢をこそ見たれと宣ひければ、さる事候、平家の侍に主馬入道盛國が子に主馬八郎左衛門盛久と申者、京都に隠れて候つるを尋取りて、只今宗遠に仰せて由比が浜にて首をはねよと遣て候、此事清水寺の観音の盛久が身にかからせ給たりけるにや。首をはね候なるに、一番の太刀は中より三に折れてまた次のたちは目ぬきより折れて、盛久が頸はきられず候よし申し候とて、盛久を召返されたり。兵衛佐殿、信伏の首をかたぶけ、手を洗ひ口をすすぎ御直垂めして盛久に抑々いかなる宿願ありて清水寺へは参り給けるぞ、奇特瑞相をあらはす不審なりと仰せらるに、殊なる宿願候はず、等身の千手観音を造立し奉りて清水寺の観音に並べ参らせて、内陣の右の脇に立奉りて千日毎日参詣をとぐべき由、宿願候て、既に八百餘日参詣し、今二百餘日を残して召し捕られ候とぞ申しける・・盛久頸をつなぐのみならず、本領を返給ふうへ、越前國池田の庄を賜るもこれひとえに清水寺観音の御利生なり・・」
2,これは人口に膾炙していた物語のようで、
・能にも『盛久』があり、鎌倉にも盛久頸座があるようです。
3,また上野清水観音堂の秘仏ご本尊はこの盛久の念持佛と言われています。