「古今著聞集」「慈覚大師如法経(法華経か)を書きける時住吉神託宣の事幷に住吉社由来の事」
「慈覚大師(1)如法経書き給ひける時、白髪の老翁杖にたづさはりて、山によぢ登りけるが、『あな苦し。内裏の守護といひ、此の如法経の守護といひ、年は高く成りて、苦しう候ふぞ』
との給ひけり。『誰が御渡り候ふぞ』と尋ね申されければ、『住吉の神なり』とぞ名乗り給ひける。皇威も法威もめでたかりけるかな。
住吉は四所おはします。一の御前は、高貴徳王大菩薩(注2)なり。竜に乗る。御託宣に云はく、『我は是、兜率天内高貴徳王菩薩也。国家を鎮護せむが為に、跡を當朝墨江邊に垂る。 松林の下に久しく風霜を送る。時に受苦有、自から北方に當りて、一の勝地有り。願くは公家に奏達し、一の伽藍を建立して、法輪を転ぜよ云々』
これによりて、神宮寺(注3)をは建立せられけるなり。また津守国基(つもりのくにもと・注4)申し侍りけるは、「南社は衣通姫(そほほりひめ・注5)なり。玉津島明神と申すなり。和歌浦に玉津島の明神と申す、この衣通姫なり。昔、彼の浦の風景を饒かに思しめしし故に、跡を垂れおはしますなり」とぞ。
- 注1。慈覚大師。平安初期。天台宗山門派の祖。延暦寺第3世座主。入唐求法巡礼行記』の著者
- 注2。高貴徳王大菩薩。
- 注3。住吉神宮寺。当寺は天平宝字2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていたが明治初年、神仏分離令により廃絶。
- 注4。津守国基。平安期の歌人,住吉社39代神主。住吉社の興隆に尽力し,中興の祖。