福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

永山博士の「矛盾論 第6」その2

2010-04-15 | 永山國昭博士の福聚講通信

前回の宿題に戻ろう。人間世界と生物世界を決定的に分かつ因子として多くの人は「言語」を挙げる。前回の議論ではそれを含有する包括的概念、memeを決定因子として提示した。生物と物質とを決定的に分かつ遺伝子geneになぞらえ文化子≡memeとしたのである。これはリチャード・ドーキンスの軽い思いつきから生まれたのだが(彼自身深い思索の果てにこの概念に到達したのではないと言っている)、現在では独り歩きし、広く世に知れ渡り、思考の経済として便利に使われている。しかしその実体となるとgeneほど明確ではない。geneは明確に1単位を指定できる。通常それは1蛋白質をコードしているDNAの1領域を指す。そして、1固体における各細胞中にあるその総体をgenome と称する。

本当の実情はそれほど単純でなく、DNAの1領域は必ずしも核酸塩基がひとつながりである特定領域を指すのではなく真核生物の場合、1蛋白質をコードするDNA配列は染色体中のDNAの中に切れ切れに分かれ存在する。切れ切れの遺伝子部分をexon、その間の非遺伝子部分をintronと称する。こうした複雑化は生物進化上多分必然的に起こったものと思われるが、それでもその複雑さは人間文化一般に比べれば極めて単純である。従ってmemeも一筋縄でくくれない複雑さを持つ。“The Meme Machine”(「ミーム・マシーンとしての私」草思社(2006))を著したSusan Blackmoreによれば、たとえば日本語の言葉1つ1つはmemeで日本語総体をmeme complex≡memeplexと呼んでいる。gene とgenomeの対応に近い。ドーキンスを含め多くの人はmemeを脳、書物やメディア中に画然と存在する概念と考えている。

ところで遺伝子にはDNAコード、そのものを指す遺伝型とその最終表現である(蛋白質の機能表現)表現型がある。メンデルのエンドウ豆では丸いものとしわしわのものという対立表現型が使われた。この対応をmemeにあてはめるとmeme遺伝型はヒト脳中の概念、meme表現型はそれが外に表現されたすべてと考えれば良いように思う。従ってmeme遺伝型の実体は概念に対応する脳中の神経回路網になるのだろうか。またはいわゆる”おばあさん細胞“のような細胞になるだろうか(多分両者は脳科学で統合される)。いずれにせよ脳科学の将来はmeme遺伝型を脳中の探すことに収束すると考えられる。

この対応で考えるとmeme表現型は私達が眼にする文化総体ということになる。では例えば私達の行動などはどう考えたら良いか。これについては既にドーキンスが答えを用意している。gene においてさえgene 支配の行動を「拡張された表現型」と呼んでいる。従って人間行動にもgene支配的表現型とmeme支配的表現型の2型があるはずだ。この問題は多分古くからある「氏か育ちか」と同型である。

最後に極めて人間臭い「お金」について考えよう。「お金」が経済で機能するのは世界中のヒトがこの意味するところを頭脳で共通了解しているからである。従って脳中に「お金」の遺伝型があるはずである。しかもこのmemeは人間文明の発達と共に大きな進化をとげ種々の派生物を生み出した。手形、小切手、預金等々信用と言われる全てである。これらもmeme遺伝型とmeme表現型を持っている。近年これらの中から多くの突然変異が生じ「怪物」が生まれた。デリバティブである。「お金」の元祖meme表現型は単純だったがそれが独自の進化を遂げ、怪物が生まれるとまず自身のmemeplex内で、さらに「お金」以外の多くのmemeplexesと衝突する。すなわち矛盾が生ずる。この矛盾は論理的というより実存的矛盾(どちらが生き残るか)として現れるように見える。

次回はこの点を3つのキーワードで掘り下げたい。「自己」、「他者」、「自然淘汰」。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 永山博士の「矛盾論 第6」その1 | トップ | 5月の高野山、奈良巡拝事前... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

永山國昭博士の福聚講通信」カテゴリの最新記事