福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,寺社の入り口に置かれている狛犬とは(修正版)?

2020-08-07 | Q&A
Q,寺社の入り口に置かれている狛犬とは?
A,
Aの一、神道大辞典の「コマイヌ」に記述があります。結論は韓土から来た故、高麗犬といい、最初は宮殿の飾りとしたものが神社仏閣に転用され多とします。・・「狛犬、高麗犬、胡麻犬。神社社殿の内外に守護と装飾との意味を兼ねて置かれる一対の獣形。獅子狛犬、獅子形とも云ひ、寺院に置かれることもある。材料は多く木・石、時には青銅・陶製のものもある。木彫りの者には彩色のあるのとないのとがある。普通彩色は左の獅子は金箔を押し、毛髪は緑青を塗り、右の狛犬には銀箔を押し、毛髪は群青を塗り銀の毛描を施す。而して州浜型(州浜を上から見おろしたような輪郭に出入りのある形)の臺に据え付ける。もともと狛犬の原型は上代漢韓の方面から舶載せられたものと思われ、初めは宮殿の調度の一つとして用いられ、その後神社・寺院にも移し用いられたものであろう。即ちこれを獅子の変形とし、韓土から来た故、高麗犬と云い、狛は貊国(びゃくこく・・三韓の属)の「貊」の字が訛って用いられたものとするのを通説とする。又、火須勢理命(ほすせりのみこと・・海幸彦)の狛吠(日本書紀巻20に火須勢理命が「吾、已に過(あやま)りつ。今より以往(ゆくさき)、吾が子・孫の八十連屬(やそつづき)、恆に當に汝が俳人(わざひと)と爲らん。 一に云う、『狗人(いぬひと)』と。 請う哀みたまえ」。 弟(おと)還りて涸瓊(ひのたま)を出す。 則ち潮自ずと息(ひ)ぬ。 是に、兄(え)弟(おと)にの有るを知り、遂に其の弟に伏い事えき。 是を以ちて、火酢芹命(ほのすせりのみこと)の苗裔(すえ)、諸の隼人(はやひと)等、今に至るまで天皇(すめらみこと)の宮墻(みやかき)の傍(もと)を離れず、代(よよ)に吠ゆる狗(いぬ)して事え奉る。 世の人、失いし針(ち)を債めざるは此其の縁也。」とあり天皇を守る為に狗吠したということになっています。)や神功皇后の三韓征伐の御事跡(八幡愚童記に、神功皇后の三韓征伐で新羅国の国王は「以後日本の犬になり年貢を差し出す」と約束した、とあります。)に関連して狛犬の起源を説こうとするものがあるが従い難い。一にアマイヌともいうのは天犬・神犬の訓であろう。戸前の犬の義だとするのは俗説である。伝来された当初は門扉・御簾・几帳などの鎮しとして兼ねて除魔の意味で用いられたが、後いつしか主として神前・神域の守護の意味で殿舎の内外に置かれるようになり、神宝の一として奉られるようにもなった。
その形状は様々で、
㈠双方とも額に一角を有するもの。
㈡一方のみ一角を有するもの。
㈢双方とも角を有せざるものがある。
その口にも
㈠双方とも開いているもの
㈡片方のみ開いていつもの
㈢双方とも閉じているもの、がある。
開口のものは玉を含める故ともいい、実際に玉や鞠をくわえているものもある。
開閉口を阿吽に準え、陰陽の象とするのは仏説から来ている。」

Aの二、「神道集」には印度に於いてお釈迦様を獅子が守った古事により、障礙を防ぐ為に獅子が据え付けられたとしています。・・「次に獅子狛犬を御前に立てることは、西域記に云、天竺給孤独園の東南に卒塔婆あり、彼は如来の遺身の舎利有り、石の社を立てること三十余尺なり、上は獅子の像を刻みて、傍に寂滅の事を記す云々、又如来の右脇に獅子伏せり云々、同記九にいわく、提婆達未生怨子、ともに親子、即御財の酔象を放って如来を害せんとせり、時に御指端より五の獅子を出して酔象に合わしたまいここに馴れ伏せり、而して前に付せりと云々、(大唐西域記巻九,摩掲陀国に「宮城の北門の外に卒塔婆がある。ここは提婆達が未生怨と親友となり、あろうことか護財という酔象を解き放して如来を害しようとしたが、如来はその指端から五匹の獅子を出したので酔象はこの場所でおとなしくなって如来の前に進んだところである。」とあります
)・・獅子狛犬は障礙をなす外道を防がんためなり、・・」。
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