昨日105歳で日野原重明氏が死去されました。だれもが氏の死去の報をうけてなにかほのぼのとした気持ちにさせられたのではないでしょうか。大往生とはまさにこのことをいうと思わせられる死に方でした。「あの世があるのかないのか」「死後はどうなるのか」と問う人がいます。結論は、誰もがこうなるという客観的世界はなく、その人の思い次第ということでしょう。日野原氏などは死後があるのかなどという愚問を発せられたことはないでしょう。そして死後も霊界で迷える霊魂の救済にあたっておられると思います。
受け身で「なぜ・・」とばかり問い続けて人生を送ってもなんら人生を生きたことにはなりません。自分はこれからどうしたいのか・・深いところでしっかりと掴んでいなければ迷います。死んでも目指すべきしっかりした方向がなければ永遠に冥界を彷徨うのみです。
アウシュビッツを生き延びたヴィクトール・フランクルは「人は神に“問う存在”なのではなく、神の期待に“応える存在”である」「私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待しているのかを考えてみよう」「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」といっています。ここに真実があります。死後にも自分の使命(じつは利他行しか使命はありえないのですが・・)を果たそうと決意するほか死後を助かる道はないのです。日野原氏の死をみて改めてそう感じさせられました。
受け身で「なぜ・・」とばかり問い続けて人生を送ってもなんら人生を生きたことにはなりません。自分はこれからどうしたいのか・・深いところでしっかりと掴んでいなければ迷います。死んでも目指すべきしっかりした方向がなければ永遠に冥界を彷徨うのみです。
アウシュビッツを生き延びたヴィクトール・フランクルは「人は神に“問う存在”なのではなく、神の期待に“応える存在”である」「私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待しているのかを考えてみよう」「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」といっています。ここに真実があります。死後にも自分の使命(じつは利他行しか使命はありえないのですが・・)を果たそうと決意するほか死後を助かる道はないのです。日野原氏の死をみて改めてそう感じさせられました。