人間は霊性的自覚で不条理を超えられる
「パスカルは人間を思惟する葦だと言ひますが、この思惟または思想を観照の意義にとってはなりません。観照とか禅観とか静慮とかいふことも大事には相違ありません。・・(しかし)霊性的自覚にはこれ以上のものがあります。静観とか瞑想とかいふとそこには二元性のものがあります。観ずるものと観ざられるものといふやうに能所(自分・相手のこと)があり、主客があります。霊性的に自覚することは、自覚なき自覚であるので、全く絶対性をもったものです。千差万別の分別界では因果だの業だの価値だのといふものがあります。知性としての人間はこれを無視するわけにはいかない、即ちその中に「落」ちるより外ないのです。併し只、霊性的自覚といふ一些子があるので人間は「無寒暑」のところに住むことができるのです、「不落因果」を体認することができるのです。宇宙そのものは無意味で無価値で三文銭に直らぬが、人間の霊性的自覚によりて無価の値を得るのです。・・
人間が宇宙より大だといふのは是の故です(注1)。時間空間からみれば人間は如何にもか弱いものです。が、霊性の上からすると、人間には従って宇宙には測り知られぬ尊厳があります。赤裸々になった人間、社会的地位も勢力もなにもない人間、この人間が持ち得る霊性的自覚の故に、「天上天下唯我独尊」と絶叫せられるのです。さうして此の一大肯定に達するの途はあらゆる人間の悩み・・知性的に道徳的に多くの悩みを経過することによりて始めて到り得られるところのものです。畢竟如何、いわく、「寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す(注2)」(鈴木大拙「仏教の大意」)
(注1)「興禅護国論の序」
「大宋国の天台山留学、日本国の阿闍梨、伝燈大法師位、栄西跋す
大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出ず・・・」
(注2)『碧巌録』第四十三則
「挙す。僧、洞山に問う、『寒暑到来す、如何が回避せん』。山云く、『何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる』。僧云く、『如何なるか是れ無寒暑の処』。山云く、『寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す』。」ここで「寒暑」とは人生の生老病死に表される『苦・不条理』であろうと思われます。「苦・不条理」を避けるにはどうすればよいかと問われて霊性を自覚することにより不条理になりきれということでしょうか?。