福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言教誠義・・3

2018-05-11 | 法話
世間の勧化または談義などは多くは寺の修営等のためなれば悪徒の大勢あらん様は軍書等の面白きことを引いて、念仏などをとなふることをすすむれども、実は当来成仏の結縁とはなりがたし。軍書等の面白き話は無明の家の迷いの上のことなるがゆえに無始以来の無明の迷いを除く仏の教えに非ざれば往生の結縁とはならず。仏のおしえには面白き世間ばなしはかってなし。出世間の教法なるがゆえなり。何卒真言家の檀那の順次往生の結縁を殖ん機にとこころずけての教誠義なれば、各々もずいぶn誠の心を発し、大師の教えを諦聴すと観じて、両手を合掌して面々の心をば愚老が口のところに注置して、聞かせ申す教えをばずいぶんと第八識に薫じて心の覚ゆる機にいたさるべし。すでに孔子も「心ここにあらざれば食へどもその味を知らず」といましめたり。凡夫の心は一境にとまらずして彼此のことを思い出し、耳には法を聴けども心には吾家のことを思ふ等は、散乱の煩悩と掉挙の煩悩とが信心に住する禅定の心を障るがゆえなり。これは善根の信心を障ふる煩悩の魔なりと知るべきなり。あるいは法席において扇つかいし、あるひは私語する等の無礼の心をもって聴聞してはかえって諸天善神の罰を蒙るなり。仏法を教ふる席には梵天・帝釈等の諸天善神守護したまふゆえなり。ま
た当来成仏の結縁とならざれば深く禁ずるべきなり。世間の談義勧化とは異にして吾宗の檀越の人に、三密の法の加持力を蒙りて決定往生を遂げしめんと欲ふの教誠なれば何事も捨て置きて懈怠なく、右の三か条の両大師の教の事を諦かに聴くべし。・・
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