第六五課 唯物と唯心
みごとな柿の一籠を地方の未知の人から送って来ました。形のよく整った御所柿です。
好意があればこそ柿の贈物がある。これ唯心的の見方であります。柿の贈物があるので人の好意も現し得られる。これ唯物的の見方であります。
事実は両方を兼ねているでしょう。私たちは贈り手の好意を懐おもうことなしにこの柿を手に執ることは出来ず、さればといって掌に載っているものは山野の秋に熟した自然の柿であります。
道理の筋道を探るために、世の中の物事の精神的な方面ばかりを採り集めて考え、あるいは物質的な方面ばかり採り集めて考えるのは、その方が便利なことも、あるいは、ありましょう。けれども、それは研究のためであります。その事、直ちに天地間の実相には当て嵌りますまい。なぜならば天地間の実相は、そのどちらにも偏らず、両方を含んで存在しているものですから。実をいえば実相それ自身は精神とか、物質とかそんな区別さえ知らずに出来て動いている一つの生ける姿ですから。ただ人間が便利上そういう区別をつけて、おのおのの方面に見分けたまでです。
ですから、物事はあまり一方へ偏り過ぎると妙なものになります。たとえば前の柿の例にしても、贈って来た人の好意は全然引離して考えに入れず、柿よりも米、味噌、醤油の方が生活必需品としてより価値的だといった議論をしたり、また、贈り主の意だけ認め過ぎて、送ってくれるなら古草鞋片足かたそくでもよいのだという議論は、只今の柿の贈物の実相には当て嵌りません。この場合は地方の人の好意としてはふさわしい柿の贈物であり、柿のみごとさにその好意の価値も一致するところに柿の贈物の実相の妙諦がうなずけるのであります。
しかし、世の中の現象は、まま、片寄ることがあります。そういうときはどちらか一方の不足の方面が補いに出て来ます。この過不及のない補い方は全く実相の理に明るい達識の人に望まれます。
仏教中の密教においては、物質界を分けて五つの種類にしております。地大、水大、火大、風大、空大、これであります。総称して五大(地大は堅固の性あり、水大は洗浄の性あり、火大は成熟の性あり、風大は破壊の性あり、空大は自由性あり)といっております。大とは物質の母性的要素というほどの意味です。そしてこのものは取りも直さず天地万有の生命の組織者であり、いちいち智的な働きを持つものとしております。故に五大は五智であると認めます。すなわち物質と精神と不可分なるを示します。これを人格化し五智如来といいます。大日、阿閦あしゅく、宝生ほうしょう、無量寿、不空成就如来等です。
(密教辞典では「唯心論」の項に「「唯心」は本来唯識哲学の用語で、一切諸法は心の変現したものであって、心が唯一の実在であると説く。また、三界は虚妄にして唯これ一心の作なり、三界唯一心、心外無別法の命題をかかげる華厳経の世界観もまた唯心論の立場を採る。この一心を法相宗では阿頼耶識、華厳宗では自性清浄心、天台宗では迷悟不二の立場から、心それ自体は同じものであるとする。密教は三界は唯心なりとする華厳宗を前提とするが、色心不二を建前とする関係上、純然たる唯心論の立場を採る者でなく、大師が十住心論に「秘密荘厳心とは即ちこれ究竟にして自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を證悟す」とあるように、唯心論と唯物論を越えたものである。」としています。)