福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その64

2014-04-11 | お大師様のお言葉

第六四課 因果ということの説明


 だいぶ古い言葉ですが、「親の因果が子に報い」とか、「何の因果でこの憂き苦労」などという言葉は浄瑠璃や唄の文句に出て来ます。そして大概、これらの言葉は、人間が悲境のときか、人生の暗黒面に見舞われたときに使われる常套語きまりことばになっております。「親の因果で子の出世」とか「何の因果でこの幸福しあわせ」などという文句を唄や浄瑠璃で聴いたことがありません。
 因果のことをまた別に因縁とも言いますが、この因縁という文字もやはり、「因縁ずくと諦めて」とか、「因縁ばなし」とか言って、ことごとく運命的なものを指し、しかもそのものは絶対の不可抗力で、何とも手の下しようもないことを評する言葉になっております。
 因果とか因縁とかいう文字は仏教から出て世の中に流布され、人心に感化を与えたのですが、それが流布された当時の封建時代の影響を受け、この文字の持つ内容の圧制的な消極的方面ばかりが採り容れられ、自由向上の積極的方面が捨てられたのは誠に遺憾であります。そして、その印象は今日もなお、深く人心に残っております。
 因果、又は因縁という言葉は、正確に言いますと、因いん・縁えん・果か、ということで、この世の中のあらゆるものの存在の相すがたの説明であります。この理は「事実」そのものなのですから、人間に対して別に親切でも冷酷でもありません。いわゆる自然律です。この事実に圧服されて押し流される人たちは、この「因縁果」を恐ろしい、また苛酷なものと思うでしょうが、これを上手に活用して、立派な成績を挙げるものには、実に希望の「因縁果」であり、文明の利器となります。「因縁果」の理法を明るく見るのも、暗く見るのも、これに関係する人々の心々によります。理法そのものの罪ではありません。
 因・縁・果の理というのはどういうことかと言いますと、例えば、私のテーブルの上に電気スタンドがあります。今は昼間なので灯は点ともっていませんが、電球の口元まで電気が来ているのは確かであります。この電気が因です。次に、夕方になって暗くなりましたので私はスイッチを捻ります。この捻ることが縁であります。すると電球に灯が点ってテーブルの上を照らします。これが果です。
 因・縁・果、これをさらに詳しく言えば、原因になるものと、援助するものと、この二つが協力、和合してはじめて、結果を生じます。世の中にありとあらゆるもの何一つとして、この理に外はずれたものはありません。そしてこの三つのもののどれか一つ欠けても他の二つはバラバラになります。私のテーブルの上の電気スタンドの場合にしますと、もしスタンドに、停電かなんかで、因の電気が来ていなければ、私がいくら骨折って縁にスイッチを捻りましても灯が点るという結果が出て来ません。また、いくら因の電気が溢れるほどスタンドの口元まで来ていましても、私が知らん顔をして縁のスイッチを捻らなければ、永久に灯は点りません。また、結果の方から見て、電気スタンドに灯が点ってこそ、スイッチを捻り電気を通じている骨折り甲斐もあるのですが、灯が絶対に点らないと判ったら、誰が電気を導き、またスイッチを捻りましょう。すなわち果がなければ、はじめから因も縁もないということが判ります。
 世の中に在るなにものについても、この程度の簡単な因果の道理の見究め方は誰にでも出来ます。そして利用の方法も見付かります。
 よく因果の道理の説明に、「稲」の話が持ち出されて来ますから、一応説明してみますと、まず稲には、因として籾がある。これが田に蒔かれて、日光の直射や農夫の手入れの助縁を受け、そして秋一粒千倍の実りの結果が得られる。すなわち米は因果の道理で出来たものであります。
 なるほど、これは確かに真理であります。米の出来るのは、この道理に洩れるものではありません。しかし、今度は逆に考えて、その理わけを知った以上、誰でも米を作れるかと言うと、そうはゆきません。私たち筆を執る職のものに、籾と土地と肥料とを与えられて、作って見ろと言われても、とても専門の農業家のように作れるものではありません。これはどういうわけでしょう。
 今まで述べて来ました因果と道理の例は、最も話を判りやすくするため、一番大掴みにした、ごく荒筋だけを説明したのでありました。事実、世の中に存在する物事は、みな因果の道理に当てはまってはいますものの、もっとずっとこまかく、また十重とえ八十重はたえに入り混り、また時間的にも無限の昔から無限の未来に連絡しているのであります。
 一反の稲を作るのさえ、その籾の選定からしていろいろの知識経験が必要であります。この知識経験ということは、自分がやってみたか、または他人がやってみたかした因果の道理の結晶であります。その籾がどういう地質に合うか合わないか、嘗てそれを実際に試してみて、すなわち因果の理法を実行した結果の成績を記憶にとどめて置きます。それが知識経験でありまして、これを参考にして次の農作をやるのです。その籾によっての収穫の利益予想も、みな因果の理に支配されます。
 その籾を苗に育てます。苗田の水が多かったり少かったりします。もし水が足らなかったら水を注ぎ入れる。その場合、水車を使えば、その水車にもう因果の理が附け加わっています。水車の水を低所ひくいところより高所に掬い上げる機能はたらきが因であります。足で水車を踏む縁によって、水は苗をひたひたと浸し成長の果を生じさせます。
 夏の田草取り。秋の鳥追い。雀が饑餓うえという因により、羽翼の羽ばたきという縁によって稲田のところへ飛んで来て、稲穂を啄ついばもうとするのが果であります。すると、こちらの農夫も、鳴子なるこという因を田の上に釣り下げ、縄をひくという縁によって、からんからんと鳴らせて雀を追払わんとするのが果であります。雀と農夫とが、因果の道理の使い競べによる正面衝突です。この場合、雀には生れつき性質に臆病という因があり、それに鳴子の音という縁が加わるので、驚いて急いで逃げるという果を生じます。
 秋の収穫が済みます。これは稲作全部からいえば、果でありますけれども、収穫それ自身が因にもなります。これが売られる縁によって、多少生計くらしが潤うとか、蝗いなごがわいたので都会の子供が蝗取りに来るとか、本年米作の成績表の一部に数え入れられて、農林大臣の考えの資料になるとか――とても数え切れません。つまり、たった一つのものの上にも、因果の道理は無数に関係して行われ、その一つのものが自身で因ともなり、縁ともなり、また果ともなっております。まして、無数のものが存在しているこの世の中の物事について、その互いの因果関係を調べたなら、それこそ限りない骨折りをしなくてはならないでしょう。
 世の中のどんなつまらぬ小さいものでも、必ずこの因果関係によって天地間のあらゆるものに有形、無形の繋がりを持っています。そこで責任感も生じ、意義も認められて来ます。それはちょうど、縦横十文字、四方八方に拡がっている網のようなものだ。私たち箇々の存在は、その網の一つ一つの網の目である。それは小さなものではあるが、網を拵え上げている上からは大事な一つの網目であります。ここの呼吸を説明しているのが華厳経という経の主旨で、この宇宙一杯に拡がる網を帝釈網たいしゃくもう(諸法重々無尽なること帝釈天の天宮に掲げられたる宝網のごとし)と言います。
 そしてこの因果の諸現象を学び知るのが「智」であります。つまり世間上の知識経験であります。これを仏教では「俗諦ぞくたい」(世俗生活の肝腎かなめということ)と言います。
 ところで、ここに考えねばならないのは、この俗諦の勉強は、無論人間が生きて行く上に是非必要な勉強ではありますが、前に述べたとおり、無限の広さ、長さを持っておることであります。また時代時代によって変ることであります。
 今日、いろいろ実地の科学も進みまして、昔と較べて生活上に便利なことは雲泥の相違であります。これは俗諦の進歩であります。すなわち文化の恩沢でありまして誠に結構なことであります。しかし、これで知識経験は充分かと言うと、なかなかそうは言い切れません。地震や風水害のようなこともありまして、その予防や避害に、もっともっと知識の進歩や設備の完全を望まねばならぬことが多々あります。病気でもワクチンや血清の発明によってチブスとかジフテリヤとか、昔絶望だったものが今日では手当さえ早ければもう危険な病気ではありません。しかしまだ癌とか癩病とかコレラとかは相変らず医術の力の外そとであります。
 社会的施設の知識についても、警察制度の発達や、交通機関の発達のため、追剥ぎ、辻斬り、水盃をして旅立ち等の悲惨事は絶無になりましたが、他方に失業問題や、階級闘争問題が起りまして、文化の余弊と言われております。今日自殺者の多いこと、これなどもその原因を全部突き止めて絶無に予防するところまでには、なかなか行っておりません。
 科学的真理の随一と言われる物理学の法則などは、永遠不滅のものかと思えばそうでなく、林檎の落ちるのは地球の引力だというニュートンの説は破られ、空間の歪ひずみに因るのだというアインシュタイン説が出現して来ます。時間も空間も一定不変なものかと思えば、計量はかり方によって、そのときそのところで違って来るという、これもアインシュタイン説が主張されて来ました。
 大体の上において、俗諦の知識は発達して来ましたようなものの、その知識を以て向い合う現象なるものが、前に述べましたような因果関係から成り立っている以上、その因果関係の組み合され方でどう変るか知れません。物によってはその変り方も無数であります。従ってこれに応ずる知識も無限でなければなりません。
 因果歴然たる道理を知って、これを自信を持って善用して行けば、良き結果は得られると判っていながら、実際の上では必ずしも良結果を収めていません。「これほど人のために骨折ってやるのに悪口を言われて、割に合わない」とか、「これほど努力してるのに一向認められない」とかいう不平が、こういうときに出て来るのであります。
 これは因果の道理は正直に行われているのですが、その因果関係は、前に述べました複雑な網の目のようになっているので、気急きぜわな単純な「智」では充分、その原因、結果を突き止めかねるのであります。
 さればと言って、これをいちいち詳細に調べていたら、時間も脳力もその方に奪とられて、すぐ眼の前の役に立ちません。それでは、これを不明のままで、不可抗力の運命として、諦めてしまうのは余りに意気地なしであります。まして人間生れつきの性質上、生命の躍進、進展は本能であります。そこで、一方「智」の価値は充分認めながら、しかもその欠陥の不足を他のもので補って行きたい。この複雑変化の多い因果関係の世の中に、因果に左右されない一定不変の法則を見出して行きたい。そのしっかりした根本方針を握って浮沈の多い世の中に処して行きたい。その日暮しの生活知識の奥に、永遠に利息が産み出せる定期預金のような知識を積みたい。これが、自分の中に「慧」を発見して、この慧によって世の中の現象の底にある一定不変の本体、本性すなわち実在を見出して行こうとする努力、欲望なのであります。この学識を「真諦しんたい」(一定不変の真理性のこと)と言います。

(因果論即ち縁起論です、各縁起論を紹介しておきます。
A,業感縁起・・・部派仏教の縁起論。一切の現象は衆生の業因によって生じたものとする説。
B,阿頼耶識縁起・・瑜伽行派や法相宗で説く縁起説。万有は阿頼耶識から縁起すると説く。阿頼耶識には一切の諸法を生じさせる種子(しゅじ)があり,種子には先験的に存する本有種子と,後天的に付加される新熏(しんくん)種子とがあり,この2種子が合し,展転して,一切の現象や差別が生じる。
C,如来像縁起・・・法相宗で説く。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、本来清浄で永遠に不変なさとりの本性である。染浄の全ての現象が如来蔵から縁起したと説くのを如来蔵縁起という。
D,法界縁起(重々無尽縁起)・・・華厳で説く究極的な縁起のあり方。すべての個々の事物・事象の中に一切が含まれるという形で,あらゆる存在が互いに関連し合って生起しているとする。
E、諸法縁起・・・天台宗の説く縁起説。色心の諸法が因縁によって仮に縁起して生じた存在(仮有)であることする。
F,六大縁起・・・真言宗の縁起説。「六大」というのは、「地・水・火・風・空・識」の六つ。衆生も仏もすべてがこの六大から成るとする。)
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