福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神道は祭天の古俗(明治24年)・・7

2018-06-07 | 頂いた現実の霊験
神道は祭天の古俗(明治24年)・・7
文科大学(東京大学)教授  久 米 邦 武    

神道に地祇なし
神道に地祇なしとは。頗る世聽を驚かすならん。然れども余は神道に地祇なしと信ずるなり。支那の地祇てふ字は。后土(こうど。中国道教の最高位の全ての土地を統括する地母神。土地・陰陽と生育を司る墓所の守り神)を祀り、社稷を祠り、山川を祭ることなどを云。我古代にハかゝる例なし。但し諾冉二尊の八大洲國及山川草木を生ことは。書紀の正文に記して。山神は大山津見神。海神は大綿津見神。(又少童命(わたつみのみこと))土神は埴安(はにやす。イサナミがクマノで、自らが産んだカグツチのの火により、焼死する間際に生んだ土の神。 カグツチとの間にワカムスビを生む)野神は野椎。木神は久々能智などゝ、紀の一書及古事記に載たり。是は山・川・野等を主るものにして。大山津見の子孫ハ吾田國(今の薩日隅)君なり。海神は、記に「阿曇連等者其綿津見神之子。宇都志日金拆命之子孫也(阿曇連(あづみのむらじ)らは、其(そ)の綿津見神(わたつみのかみ)の子、宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)の子孫(すゑ)なり。『古事記』)」とあり。又姓氏録にも見ゆ。伊豆伊豫の三島社。及隠岐に大山祇神を祠るは吾田君の兼領地にて。筑前志賀島の海神社は海神國なるべく、對島・壹岐・隠岐。但馬・播磨等の海神社は其兼領地なるべきことは已に史學會雜誌におきて辨したり。夫れ天照大神・月讀命は。日月を祭るに非ず。津守氏の住江津に祠る住吉社は津神を祭るに非す。山神社・海神社も亦然り。又後世の地神祭、或は北辰祭は、皆陰陽道に出つ。是を以て日本に日月星辰を祭り。山海河津を祀ると思ふ者は全く歴史を解せざる者の妄説にて辨するに足らず。爰に辨ぜざるを得ざることは、神武帝以來の歴史に明かに天神地祇を記し、後に神祇官を置き、神祇令を制し、續紀の元明帝聖武帝の宣命文にも、天坐神地坐神とあり。地祇とは如何なる神をいふにやと考ふれば。神祇令に。〔凡天神地祇者。神祇官皆依常典祭之(神祇令第一条「凡そ天神地祇は神祇官皆常典に依りて祭れ」)〕と。義解に〔謂。天神者。伊勢・山城鴨・住吉・出雲國造齋神等類是也。地祇者。大神・大倭葛木鴨・出雲大汝神等類是也。(『令集解』天平宝字元年(757) 神祇令天神地祇条)
〕といへり。出雲國造齋神とは出雲の熊野社にて、出雲大汝神とは杵築の大社なり。熊野社は素戔鳴尊を祭る。因て天神とし。大社は大汝命を祀る。因て地祇としたるにや。其別甚た明白ならねども、支那の皇天后土(天神地祇)とは異なることハ明かなり。大神はおほみ王と訓す。大三輪社の事は前條に擧たる如く。大汝命の幸魂奇魂を祠りたる社なれば。亦天神とこそ云べけれ。大倭葛木鴨(大倭 (おおやまと)、葛木鴨(かつらぎのかも)は、紀に(一書)〔大己貴神之子。即甘茂君〕とあり。記に〔大國主神娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命。生子阿遅鉏高日子根神云云。今謂迦毛大神者也(古事記に「大國主神の娶る胸形の奧津宮に坐ます神多紀理毘賣命の生せる子は、阿遅鉏高日子根神 (アジスキタカヒコネノカミ)云々。今にいう『かもの大御神』なり。」)〕とあり。姓氏録に。〔大國主神之後。大田田禰古命之孫。大賀茂都美命奉齋賀茂神社(大國主神の後の大田田禰古命の孫、大賀茂都美命を奉齋して賀茂神社とす。(大国主神(オオクニヌシ)の子孫である大田田根子(おおたたねこ。大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。崇神天皇の代、疫病や災害がつづいたとき,天皇の夢にあらわれた大和(奈良県)の三輪山の大物主神のお告げにより大神(おおみわ)神社の神主となる。その結果,疫病がやんだといわれる。)の孫の大賀茂都美命(大国主神の後、太田々禰古命の孫である大賀茂都美命が賀茂神社を奉斎した)を始祖として、賀茂神社を祀る)。〕とあれば。景行成務の朝に建たる社にて。大三輪社と同體の神社と思ハるれば。地祇は只大國主命のみを云が如し。姓氏録の神別に。天神天孫地祇を分ちて。地祇には大國主・胸形三神・海神・天神・穂分・椎根津彦・井光・石押別等の後を彙集したり。海神は住吉神と共に諾尊祓除の時に現生し。筑前那珂郡並に其社あり。宗像社は天照大神の御女なるに。住吉と素戔嗚とは天神に列し。海神と宗形とは地祇に列す。何とも其理の聞えぬことなり。
地祇の起りを繹ぬるに、紀に神武帝宇陀より磯城磐余へ打入の前。〔天神訓之曰。宜取天香山社中土。以造天平瓮八十枚。并造厳瓮。而敬祭天神地祇(『日本書紀』 神武天皇即位前紀戊午年(前663年)九月の条 「天神(あまつかみ)有(ま)して訓(をし)へまつりて曰(のたま)はく、『天香山の社の中の土を取りて、天平瓮(あまのひらか)八十枚(やそち)を造(つく)り、并(あは)せて厳瓮(いつへ)を造(つく)りて、天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を敬(ゐやま)ひ祭(まつ)れ。』)〕とあるを始見とす。其時弟猾
(おとうかし。大和の菟田県 (うだあがた) の豪族の長。神武天皇を暗殺しようとした兄の兄猾 (えうかし) を密告。功により猛田邑 ( たけだのむら) を与えられた。)の奏には〔今當取天香山埴。以造天平瓮。而祭天社國社之神〕に作れば。天神地祇と天社國社とハ互文にて。其實ハ同し。時に椎根津彦(しいつねひこ。記・紀にみえる神。神武天皇の東征のとき,速吸門(はやすいのと)(豊後(ぶんご)水道,一説に明石海峡)で水先案内のため小舟にのってでむかえた国津神(くにつかみ)。のち倭(やまと)の兄磯城(えしき)を討つのに功があり,倭国造(くにのみやつこ)となったという。もとの名は珍彦(うずひこ)。)・井光(いひか。『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、贄持之子の次に出会った神とされ、光る井から出て来た上に、尾のある人(有尾人)であったとしている(『紀』では、「光りて尾あり」と記述されるのみ)。天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を井氷鹿」と答え、吉野首等(よしののおびとら)の祖なりと記される。)・石押別(いわおしわく。『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所で岩を押し分けて出て来た上、2番目に出会った井氷鹿と同様に尾が生えていたので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した)ハ、皆軍に從ひたれば。所謂地祇は大三輪社あるのみ。皇師に抗したる登美彦(即長髄彦)ハ大三輪の一族なれば、此地祇は大三輪社をさすに非ざる明けし。且大己貴命の大三輪社を建たるは。瓊々杵尊の西降し、天照大神伊勢降臨の後ならん。然れば日向の宮に於て。大國魂神を地祇として祀らるゝ故もなし。崇神紀に〔先是天照大神・倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内〕とハ必ず神武帝の大倭を平定して、大三輪君より五十鈴姫を皇后に納給ふ後のことなるべく。其以前の國社は大己貴に非ざること明々白々なり。是を以て考ふるに天社國社とは。天朝より齋きたるを天社とし。國々に齋きたるを國社とするなるべし。今の官幣社國幣社の如し。祭神にて別つに非ず。故に筑紫の宗像社は國社にて、出雲熊野社ハ天社とし墨江の住吉社は天社にて筑紫の海神社ハ國社とするも妨けなし。みな天に在す神を祭るなり。地に顯れたる神にハ非ず。又人鬼を崇拜する社にも非ず。然るに早き時代より此義を誤りたるにや。天社國社を神祇と譯したり。古事記は漢譯の誤なしと稱すれども、紀は〔崇神帝七年定天社國社。及神地神戸(崇神帝七年、天社國社及神地神戸を定む。天社は、天津神を祀る社、国社は国津神を祀る社、神地(しんち)は神社境内地、神戸(かんべ)は祭祀を維持する神職)〕とあるを。記は〔定奉天神地祇之社(古事記・中つ巻・崇神天皇に「天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)之社(やしろ)に奉(まつ)らしむを定め」)〕と書たり。令も其時代に定めたれば。已に神祇の別を誤れり。まして姓氏録は猶百年も後の書なれば。前に論ずるが如き混雜なる分別をなすに至れり。令義解に山城の鴨を天神とし。大倭萬木鴨を神祇としたる(令義解(833・大宝令・養老令の勅撰解説書)に、「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造が斎く神等是ぞ、 地祇とは大神(オオミワ)・大倭・葛城鴨・出雲大汝神等の類是ぞ」)も甚疑し。山城の鴨は別雷神社(一に若雷)と稱す。故に天神としたるならん。然れども其創建に遡れば。大倭の京にてありし時ハ。山背は吉野と同しく。青垣山の外の平野にて。此に天社を建られたることは不審なり。思ふに大倭の大三輪社の如く山城の國社なるべし。平安奠都の後は。其國の産土神なる故に、別段に尊敬せられたるなり。凡諸神社祭神の説は。神道晦みたる後の附會なれば。紛々として影を捉ふが如し。姓氏録に素戔鳴は天神。天穂日は天孫。宗像三女は地祇とするが如く。不倫甚だし。此くいふ故に。神祇は人鬼を崇拜するものゝ如くなりて。益神道の本旨を失ひたり。

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