妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・37
六には追って第六の刀杖難を頌す。
「或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼觀音力 刀尋叚叚壞」
「臨刑」とは王法の刑罰に伏して死罪に遭とするなり。餘の文は長行の王難の文に準じて知るべし。
若し密宗の六大無碍の義に約して解せば、刀杖は堅物なるを以て是則ち地大なり、利刀を以て物を裁壊するは是火大、三角の鋭利の性なり。今観音の妙観察智を以て六大周遍の理を照らし玉ふ時、地と空と一味なれば堅性の刀杖(堅は地大の性)、即ち無碍の性なるが故に(無碍は即ち空大の性なり)刀杖の大難即ち空となって無障無碍なり。又火も水と無碍なれば火大の三角にして物を壊する用(即ち刀杖の利刀なり)、即ち水の滋潤の用と成りて難の苦怖を除て、其の心歓喜し潤沢す。實に此の六大無碍の観智、能く事事の諸法の源に徹するに非ずんば豈水火風の災いを転じて安穏ならしむることあらんや。顕家の真如縁起の理は(一切万有は真如・仏性からの縁に従って顕現するという考え方)空無なる理より有體の万法を縁起すと立つが故に、其の義猶疎遠なり。密宗の六大縁起は事法の六大を本體として(六大は本有の法なり、空無の法に非ず。)即ち事事の諸法を縁起するが故に、其の義極めて親切なり。即身成佛の實義も唯是の六大無碍を本とせり。委くは弘法大師の即身成佛義に此の奥義を載せられたり(即身成佛義の「六大無礙にして常に瑜伽なり 四種曼荼は各々離れず 三密加持すれば速疾に顕わる 重重帝網なるを即身と名づく」に是を示す。宇宙のあらゆる存在は六大でありそれは相互に無盡に溶け合っている)。若し人即に佛知見を開発せんと思はば彼の書を披見すべし。
第六は追って第六の枷鎖の難を頌す。
「或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼觀音力 釋然得解脱」
先に別して解せば
「囚禁」とは囚は籠繋なり。人をとらへて籠に入るる義を以て此の囚の字を作るなり。禁は禁止して自由ならざらしむるなり。
「釋然」とは釋は解散の義なり。杻械枷鎖皆解けて散ずるなり。
次に総じて釈せば是又地空無碍の観智の故に忽ちに其の難を遁るなり。枷鎖等は堅物なれば地大なり、地即ち空なるが故に枷鎖解散するなり。
問、地空無碍なること卒に信じ難し。其の故は地は堅性にして至極質礙の物なり。空は無體無形にして至極無礙の物なり。然るを相違の法たる地空を無碍と云こと不審なり如何。
答、凡そ六大無碍の深理は佛智の所證なるが故に凡情の及ぶ所に非れば、我等が愚昧を以て記すべきに非ず、されども粗ぼ見聞する處を以て地空無碍の義、九牛が一毛を記さん。先ず地は堅なり。空は無碍なること問に聞くが如し。しかるに若し地はいつまでも堅にして遂に無碍なることなしと云はば、夫れ地の中に草木の種子を下すに、水土の縁に由りて其の種子より下に根を出し、上に芽を出す、根芽俱に地を剖て入り、地を裂いて出ず。地若し堅に局らば根わり入ること能はじ。地若し質礙に定まらば芽裂出ることを得べからず。而るに堅性の地なりといへども無碍性の虚空地中に周遍するが故に自ら根芽共に障へられずして生ずるなり。
復次に多くの樹を一處に栽置くに歳を歴るに随て、其の根盤屈し蔓延す。其の根地中に周遍すれども而も地も高くあがるに非ず。又邊に廣がるにも非ず。是亦地と空と相入するを以て質礙の地大に即して無碍なる理なり。
復次に地は地のみにして空と相入することなしと云はば彼鋤犂を以て掘り穿つに皆塊と成りて離散することは何ぞや。地は堅なる物なれば離散すべき理なし。而るを縁に依て離散することは本来地空一體の故なり。
次に若し空は無障碍の性に局ると云はば、今又云べし、彼の虚空の如きは劫火長に焚けども空を壊すること能はず。刀杖を以ても断割することあたはず。鎚砧を以ても打砕くこと克はず。是豈空に堅性を具へたるに非ずや。乃至一切諸法一一に事に歴て論ずるに、悉く無二平等の義あり。委く記すに遑あらず。若し此の六大無碍の深理を了達するときは諸法互相に渉入することを知が故に、能く差別に即して無差別を知る。凡聖差別して而も凡聖不二なり。浄土穢土各別なれども而も又穢土即ち浄土なり。自身と観音と迷悟差別なれども而も又不二なる理あり。唯心の弥陀、己身の浄土(我々の心が阿弥陀如来であり、浄土である)と云も又同じ意を住て尋思せよ。
八には加へて呪詛毒薬の難を頌す。
「呪詛諸毒藥 所欲害身者 念彼觀音力 還著於本人」
「呪詛」とは呪術を以て詛(のろ)ふなり。是人を殺す法なり。真言教の中に降伏の法あり。是に相似せる事なれども其の意大に相違せり。
「毒藥」とは種々の毒を以て人を害するなり。是二つの命難なり。
「還著於本人」とは呪詛の法に鬼を使ふことあり。薬師経には起尸鬼(きしき)と名く(佛説藥師如來本願經「成就種種毒害呪術厭魅蠱道起屍鬼呪。欲斷彼命及壞其身。由聞世尊藥師琉璃光如來名號故。此諸惡事不能傷損。皆得互起慈心益心無嫌恨心。各各歡悦更相攝受」)。尸陀林(しだりん。尸を棄つる墓所なり)の中に往きて少壮の男或は女の新に死して五體具足し瘢痕(はんこん。傷)もなく、蟲蛆(むしうじ)も無く、烏鳥も殘(そこな)はず、狐狗も未だ噉はざるを取りて土壇を築き、其の中に彼の尸を安じて、四方に種々の供養を備へ、呪師は呪を誦して悪鬼を召請して、彼の尸に遍入せしむ。尒時に彼の尸起挙て曰、汝如何なる事をか欲すると。呪師の曰く、汝、某人を殺せ、と。尸鬼即ち往て殺すに彼の人邪念なれば苦に遭ふ。正念なれば殺すこと能はず。譬ば空に向て唾を吐くに空は汗(けが)されずして却って我顔を汗すが如くにして、彼の鬼還て本人を殺害するなり。譬喩經に曰、昔優婆塞あり、初めは五戒を受持すれども年衰老するに随て廃忘して破戒すること多し。時に山中に梵志あり、渇せるが故に彼の優婆塞に就いて酒を乞ふ。然りといへども田家なれば事忙ふして見やる暇なし。梵志恨を含んで去りぬ。即ち起尸鬼の法を作して悪鬼を召て彼の優婆塞を殺さんとす。時に山中に一人の羅漢あり、是を知りて田家に往きて優婆塞に告げて曰く、汝今尸鬼の難あり、今夜早く燈を燃し三帰を唱へ守口身莫犯の偈を(「守口攝意身莫犯,如是行者可度世」の二句は周利盤特の習はれし偈なり。「善護於口言、自浄其心意、身莫作諸悪、此三業道浄、能得如是行、是大仙人道。は釈迦佛の戒經なり。下に已に戒經といへり。知りぬ、善護於口言の偈なることを。」)誦して一切衆生を慈愍する意を発すべし。尒らば安穏なることを得べし、と。主人、教の如くして通暁三寶を念じ戒經を誦す。此の徳に依て悪鬼害すること能はず。乃ち恚て還て梵志を害せんとす。羅漢神力を以て梵志を蔽して見ざらしむ。羅漢の慈悲方便を以て二人俱に安穏なることを得たりと。妙楽の弘決に此を引いて正しく是普門品の還著於本人の文なりといへり(止觀輔行傳弘決卷第八之二唐毘陵沙門湛然述「亦如譬喩經中。有清信士初持五戒精進不殺。後時衰老多有廢忘。爾時山中有渇梵志。從其乞飮。田家事忙不暇看之。遂恨而去。梵志能起尸使鬼召得殺鬼。勅曰。彼辱我往
殺之。山中有羅漢知。往詣田家語言。汝今夜早燃燈勤三自歸。口誦守口身莫犯偈。慈念衆生可得安隱。沙門去後主人如教。通曉念佛誦戒。鬼至曉求其微兀欲殺之。覩彼慈心無能得害。鬼神之法人令其殺。即便欲殺。但彼有不可殺之徳。法當却殺其使鬼者。其鬼乃恚欲害梵志。羅漢蔽之令鬼不見。田家悟道梵志得活。不獲殺罪。田家專注念佛全一門之命。當知正念鬼不得便。此等亦可比誦戒序防鬼魔之文。正是觀音經中還著於本人之文」)。
是を以て例するに今の文の「還著本人」も亦観音の神力に依りて本人も其の害を免るべし。或は又其の本人大悪人ならば命根を断て頓に現世の悪業を息、當来の苦果を軽くせしむることあるべし。是瑜伽論の性罪不共の意なり(瑜伽師地論卷第四十一本地分中菩薩地第十五初持瑜伽處戒品第十之二「謂如菩薩見劫盜賊爲貪財故欲殺多生。或復欲害大徳聲聞獨覺菩薩。或復欲造多無間業。見是事已發心思惟。我若斷彼惡衆生命墮那落迦。如其不斷。無間業成當受大苦。我寧殺彼墮那落迦。終不令其受無間苦。如是菩薩意樂思惟。於彼衆生或以善心或無記心。知此事已爲當來故深生慚愧。以憐愍心而斷彼命。由是因縁於菩薩戒無所違犯生多功徳。」)。又真言法の降伏もこの意なり。若し外道悪人悪王等の佛法を破滅することある時は佛法の軌則は兵杖毒薬を以て害することはあるべからざるが故に廣大深重の慈悲心に住して三密の功用を以て彼が煩悩業障を滅して本有の善心を發起せしむ。彼の人三界の生を潤すところの煩悩速やかに息、苦を招ところの悪業頓に滅するが故に、自ら其に潤されて相続せる業壽忽ちに盡きて命終し、来世には必ず菩提心を發して佛道に入るなり(大日経に、一切の蘊の阿頼耶の業壽の種子、皆悉く焚滅して虚空無垢の大菩提心に至るを得といへり。大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一に「今修平等三業清淨慧門。一切蘊阿頼耶業壽種子。皆悉焚滅。得至虚空無垢大菩提心。」)。是則降伏の法は大慈大悲を以て本とす。若し悪心瞋心を以て行ずる時は、怨敵をも平げ又我も災に遇なり。何となれば真言は心佛衆生三平等の法なるが故に自他の隔てなく、普く悪業煩悩を除滅するを以て、自の悪業煩悩に繋がれたる命根も同じく失壊するなり。末世蒙昧の真言師及び山臥なんどの調伏の法を修するは、悪心瞋心を以てする故に佛教の本意に背て而も現當の苦を招く事のみなり。大凡密法を以て厄を拂ひ病を救ふには能く其の本意を知りて、理の如く説の如く行ずべき者なり。若し其の意を得ず理に違ひ説に背くときは正法も邪法と成ることあり。慎んで用心すべし。