守覚法新皇に祈祷していただき安徳帝をうんだ建礼門院のその後は平家物語・六道に「生きながらに六道を見た」として出てきます。
「平家物語・灌頂の巻・六道」では建礼門院(壇ノ浦の合戦で安徳天皇とともに入水後、救助され,落飾して真如覚と号し大原寂光院に閑居している)を後白河法皇が尋ね、建礼門院は今までの人生で六道を見たと話します。後白河法皇は玄奘三蔵も悟る前には六道を見ておられた、といって慰めます。
「六道」のあらすじ。
「後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。・・」と言うと、徳子は「今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生で六道を見たと語る。
(天上道)
「私は平清盛の娘として生まれ、国母となり全てが思いのままで天上界もこのようなものかと思うほどでした。ところが木曾義仲に都を追われ、須磨や明石の浦を船で辿った時は、天人五衰のようだと思いました」
(人間道)
「人間界の愛別離苦、怨憎会苦は特に思い知らされました。筑前国大宰府では緒方惟栄に追い払われ、立ち寄って休むところもなくなりました。10月に清経が入水したのは愛別離苦にはじまりであった」
(餓鬼道)
「海に逃れてても浪の上では、食事にも事を欠く有様でした。たまたま食べ物があっても水が無くては調理できず、目の前にたくさん水があっても海水なので飲むことができないことは餓鬼道の苦しみであった」
(修羅道)
「一ノ谷の戦いで一門が多く滅んだ後は明けても暮れても戦いの鬨の声が絶えることはなく、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖の釣り船を見て敵船かと脅え、遠方の松の白鷺を見て源氏の白旗かと心配する日々が続き修羅の世界であった」
(地獄道)
「壇ノ浦の戦いで二位尼が先帝を抱いて船ばたへ出、先帝(安徳天皇)に『君は前世の善行の果報で万乗の主となられましたが、悪縁にひかれてその運も尽きてしまいました。この国はつらいところですから、極楽浄土という素晴らしい世界へお連れします』と泣く泣く申されて入水された。帝の面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみに耐えようとしても耐えられません。後に残った人々のわめき叫ぶ声は、地獄でした。」
(畜生道)
「武士に捕らえられ都に戻る途中の明石浦で、先帝と一門が昔の内裏よりはるかに立派なところに威儀を正して居並んでいる夢を見ました。『ここはどこでしょうか』と尋ねると、二位尼らしい声が『龍宮城』と答えました。『素晴らしいところですね。ここに苦しみはないのでしょうか』と尋ねると、『龍畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってください』と言われて目が覚めました」
徳子は「これらは六道に違いないことと思いました」と結び、後白河は「これほどはっきりと六道を見たという体験は言い難いこと」と涙を流した。夕陽が傾き寂光院の鐘が鳴ると、後白河は名残惜しく思いながら涙を抑えて還御した。一行を見送った後、徳子は「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と祈った。
「(建礼門院に仕える阿波の内侍が発言して)『世を厭ふ御習ひ何かは苦しう候ふべき 早々御対面あつて還御成し参らさせ候へ 』と申しければ女院御庵室に入らせおはします。 『一念の窓の前には摂取の光明を期し十念の柴の樞には聖衆の来迎をこそ待ちつるに思ひの外に(後白河法皇が)御幸成りける不思議さよ 』とて御見参ありけり。
法皇この御有様を見参らせ給ふに 『悲想之八万劫、猶必滅之愁に逢ひ、 欲界の六天、未だ五衰之悲を免れず、善見城之勝妙の楽、中間禅之高台閣、又夢裏の果報、幻間の楽、既に流転無窮也、車輪の廻るが如し 、天人の五衰の悲しみは人間にも候ひけるものかな 。さるにても何方よりか事問ひ参らせ候ふ 、何事につけてもさこそ古思し召し出づらめ 』と仰せければ女院 『何方よりも音信るる事も候はず `信隆隆房卿の北方より絶々申し送る事こそ候へ 、その昔あの人共の育みにてあるべしとは露も思し召し寄らざりしものを 』とて御涙を流させ給へば付き参らせたる女房達も皆袖をぞ濡らされける。
ややあつて女院涙を押さへて申させ給ひけるは `『今かかる身になり候ふ事は一旦の嘆き申すに及び候はねども後生菩提の為には悦びと覚え候ふなり。 忽ちに釈迦の遺弟に列なり忝くも弥陀の本願に乗じて五障三従の苦しみを遁れ三時に六根を清めて一筋に九品の浄刹を願ひ専ら一門の菩提を祈り常は聖衆の来迎を期す 。いつの世にも忘れ難きは先帝の御面影、忘れんとすれども忘られず忍ばんとすれども忍ばれず 。ただ恩愛の道ほど悲かりける事はなし 。さればかの菩提の為に朝夕の勤め怠る事候はず 。これも然るべき善知識と覚え候ふ 。』と申させ給ひければ法皇仰せなりけるは 『それ我が国は粟散辺土なりといへども忝くも十善の余薫に答へ万乗の主となり随分一つとして心に叶はずといふ事なし 。就中仏法流布の世に生れて仏道修行の志あれば後生善処疑ひあるべからず 。人間の徒なる習ひ今更驚くべきには候はねども御有様見参らせ候ふにせん方なうこそ候へ 』とて御涙塞き敢へさせ給はず。
女院重ねて申させ給ひけるは 『我が身平相国の娘として天子の国母と成りしかば一天四海皆掌のままなりき 。拝礼の春の初めより色々の更衣仏名の年の暮れ摂禄以下の大臣公卿にもてなされし有様は六欲四禅の雲の上にて八万の諸天に囲繞せられ候ふらんやうに百官悉く仰がぬ者や候ひし 。清涼紫宸の床の上玉の簾の内にてもてなされ春は南殿の桜に心を留めて日を暮らし、九夏三伏の暑き日は泉を掬んで心を慰み秋は雲の上の月を一人見ん事を許されず玄冬素雪の寒き夜は褄を重ねて暖かにす 。長生不老の術を願ひ蓬莱不死の薬を尋ねてもただ久しからん事をのみ思へり 。明けても暮れても楽しみ栄え候ひし事天上の果報もこれには過ぎじとこそ覚え候ひしか。
さても寿永の秋の初め木曾義仲とかやに恐れて一門の人々住み馴れし都を雲井の余所に顧みて故郷を焼野原とうち眺め古は名をのみ聞きし須磨より明石の浦伝ひさすが哀れに覚えて昼は漫々たる波路を分けて袖を濡らし夜は洲崎の千鳥と共に泣き明かす 。浦々島々由ある所を見しかども故郷の事は忘られず 。かくて寄る方なかりしかば五衰必滅の悲しみとこそ覚え候ひしか 。人間の事は愛別離苦怨憎会苦共に我が身に知られて候ふ 。四苦八苦一つとして残るところも候はず 。さても鎮西をば維義(惟義)とかやに九国の内をも追ひ出だされ山野広しといへども立ち寄り宿るべき所もなし 。同じ秋の暮れにもなりしかば昔は九重の雲の上にて見し月を八重の潮路に眺めつつ明かし暮らし候ひしほどに神無月の比ほひ清経中将(重盛の三男)が『都をば源氏が為に攻め落され鎮西をば維義が為に追ひ出ださる。網に懸かれる魚の如し 。何処へ行かば遁るべきかは 。長らへ果つべき身にもあらず 。』とて海に沈み候ひしぞ憂き事の始めにて候ひし。 波の上にて日を暮らし船の内にて夜を明かす 貢物もなければ供御を備ふる事もなし 適たま供御は備へんとすれども水無ければ参らず 。大海に浮かむといへども潮なれば飲む事なし 。これまた餓鬼道の苦しみとこそ覚え候ひしか 。室山水島所々の戦ひに勝ちしかば一門の人々少し色直つて見え候ひしが一谷とかやにて一門の人々半ば過ぎ討たれ宗徒の侍共数を尽くいて滅びにしかば各直衣束帯を引き替へて鉄を延べて身に纏ひ明けても暮れても軍呼ばひの声の絶ゆる事もなかりしは修羅の闘諍、帝釈の争ひもこれには過ぎじとこそ覚え候ひしか。
一谷を攻め落されて後親は子に後れ妻は夫に別る 。沖に釣する舟をば敵の舟かと肝を消し遠き松に群れ居る鷺をば源氏の旗かと心を尽くす 。さても壇浦とかやにて軍は今日を限りと見えしかば二位尼申し置く事候ひき 。『男の生き残らん事は千万が一も有難し 。たとひ遠き縁は生き残つたりといふとも我等が後生弔はん事も有難し 。昔より女を殺さぬ習ひなればいかにもして長らへて主上の御菩提をも弔ひ我等が後生をも助け給へ 』と申し候ひしを夢の如くに覚え候ひしほどに風忽ちに吹き覆ひ浮雲厚く棚引き兵心を惑はし天運尽きて人の力にも及び難し。
既に今はかうと見えしかば二位尼先帝を抱き参らせて舟端へ出でし時あきれたる御有様にて 『抑も尼前、我をば何方へ具して行かんとするぞ 』と仰せければ二位尼涙をはらはらと流いて幼き君に向かひ参らせて 『君は未だ知ろし召され候はずや前世の十善戒行の御力によつて今万乗の主とは生れさせ給へども悪縁に引かれて御運既に尽きさせ給ひ候ひぬ `まづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮伏し拝ませおはしましその後西に向かはせ給ひて西方浄土の来迎に預らんと誓はせおはしまし御念仏候ふべし `この国は心憂き堺にて候へば極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせ候ふぞ 』と泣く泣く遥かに掻き口説き申されしかば山鳩色の御衣に鬢結はせ給ひて御涙に溺れ小さう美しき御手を合はせまづ東に向かはせ給ひて伊勢大神宮に御暇申させ給ひその後西に向かはせ給ひて御念仏ありしかば二位尼先帝を抱き参らせて海に沈みし有様、目も眩れ心も消え果てて忘れんとすれども忘られず忍ばんとすれども忍ばれず 。残り留まる人々の喚き叫びし有様は叫喚大叫喚の焔の底の罪人もこれには過ぎじとこそ覚え候ひしか。
さて武士どもにとらはれて、のぼり候ひし時、播磨国明石浦について、ちっとうちまどみて候ひし夢に、昔の内裏にはかるかにまさりたる所に先帝を始め参らせて一門の人々皆ゆゆしげなる礼儀にて候ひしを都を出でて後未だかかる所を見ずざりつるに『是は何処ぞ 』と問ひ候ひしかば二位尼と覚え候ひて 『龍宮城 』と答へ候ひし時 『めでたかりける所かな 、これには苦はなきか 』と問ひ侍にしかば 『龍畜経(大蔵経中には不明)の中に見えて候ふ 。よくよく後世をとぶらひ給へ』と申すと覚えて夢覚めぬ 。その後はいよいよ経を読み念仏してかの御菩提を弔ひ奉る 。これ皆六道に違はじとこそ覚え候へ 」と申させ給へば法皇仰せなりけるは 「異国の玄奘三蔵は悟りの前に六道を見、我が朝の日蔵上人は蔵王権現の御力によつて六道を見たりとこそ承れ 、御覧ぜられけるこそ有難う候へ 、とぞ御涙を流させ給へば供奉の人々も皆袖をぞ濡らされける 。女院も御涙を流させ給へば付き参らせたる女房も袖をぞ濡らされける。