1、地蔵菩薩の縁日は毎月24日です。盂蘭盆期間中の地蔵菩薩の縁日旧暦7月24日を特に地蔵盆と呼び、近畿地方を中心に路傍のお地蔵様をおまつりするならわしがあります。お地蔵様を洗い清めて新しい前垂れをお着せしたり灯籠を立てたりお供え物をしたりします。
2、お地蔵様はお釈迦様が入滅されてから、弥勒菩薩が降臨されるまでの56億7000万年の無仏の時代の衆生をみちびいてくださいます。地蔵菩薩本願経にはお地蔵様の28種の功徳が説かれています。
「「一者天龍護念、二者善果日増、三者集聖上因、四者菩提不退、五者衣食豊足、六者疾疫不臨、七者離水火災、八者無盗賊厄、九者人見欽敬、十者神鬼助持、十一者女転男身、十二者為王臣女、十三者端正相好、十四者多生天上、十五者或為帝王、十六者宿智命通、十七者有求皆従、十八者眷属歓楽、十九者諸横消滅、二十者業道永除、二十一者去処盡通、二十二者夜夢安楽、二十三者先亡離苦、二十四者宿福受生、二十五者諸聖讃歎、二十六者聰明利根、二十七者饒慈愍心、二十八者畢竟成仏 」とあります。
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また六道の衆生を救済してくださるという六地蔵の信仰も生まれました。地獄道は宝珠、錫杖を持つ大定智悲地蔵(地蔵菩薩) 、 餓鬼道は宝珠与願印 の大徳清淨地蔵(宝手菩薩)、畜生道は如意宝珠 を持つ大光明地蔵(宝処菩薩)、 修羅道は宝珠、梵篋 を持つ清淨無垢地蔵(宝印手地蔵)、人間界は 宝珠 施無畏印 の大清淨地蔵(持地菩薩) 、天界は宝珠、経巻 を持つ大堅固地蔵(堅固意菩薩) が救ってくださるといわれます。
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また、子どもを守るということで、賽の河原地蔵和讃も生れました。
空也上人作といわれる(賽の河原)地蔵和讃です。
「帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは 諸事の哀れをとどめたり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ 娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ 無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して 西に向いて父恋し 東に向いて母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり げに頼みなきみどりごが 昔は親のなさけにて 母の添い寝に幾度の 乳を飲まするのみならず 荒らき風にも当てじとて 綾や錦に身をまとい その慈しみ浅からず 然るに今の有様は 身に一重さえ着物無く 雨の降る日は雨に濡れ 雪降るその日は雪中に 凍えて皆みな悲しめど 娑婆と違いて誰一人 哀れむ人があらずなの ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び これにて回向の塔を積む 手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして 一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む 二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する 三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと 礼拝回向ぞしおらしや 昼は各々遊べども 日も入相のその頃に 地獄の鬼が現れて 幼き者の側に寄り やれ汝らは何をする 娑婆と思うて甘えるな ここは冥土の旅なるぞ 娑婆に残りし父母は 今日は初七日、二七日 四十九日や百箇日 追善供養のその暇に ただ明け暮れに汝らの 形見に残せし手遊びの 太鼓人形風車 着物を見ては泣き嘆き 達者な子供を見るにつけ なぜに我が子は死んだかと 酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの 責め苦を受くる種となる 必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて 積んだる塔を押し崩し 汝らが積むこの塔は ゆがみがちにて見苦しく かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し 成仏願えと責めかける やれ恐ろしと幼子は 南や北や西東 こけつまろびつ逃げ回る なおも獄卒金棒を 振りかざしつつ無惨にも あまたの幼子睨み付け 既に打たんとするときに 幼子怖さやる瀬無く その場に座りて手を合わせ 熱き涙を流しつつ 許したまえと伏し拝む 拝めど無慈悲の鬼なれば 取り付く幼子はねのけて 汝ら罪なく思うかよ 母の胎内十月の内 苦痛さまざま生まれ出て 三年五年七歳と わずか一期に先だって 父母に嘆きを掛くること だいいち重き罪ぞかし 娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて 乳の出でざるその時は 責まりて胸を打ち叩く 母はこれを忍べども などて報いの無かるべき 胸を叩くその音は 奈落の底に鳴り響く 父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり 父の涙は火の雨と なりてその身に振りかかり 母の涙は氷となりて その身をとずる嘆きこそ 子故の闇の呵責なれ かかる罪とがある故に さいの河原に迷い来て 長き苦患を受くるとぞ 言いつつまたもや打たんとす やれ恐ろしと幼子が 両手合わせて伏し拝み 許したまえと泣き叫ぶ 鬼はそのまま消え失せる 河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の 一念届きて影映れば のう懐かしの父母や 飢えを救いてたび給えと 乳房を慕いて這い寄れば 影はたちまち消え失せて 水は炎と燃え上がり その身を焦がして倒れつつ 絶え入ることは数知れず 峰の嵐が聞こえれば 父かと思うて馳せ上がり 辺りを見れども父は来ず 谷の流れの音すれば 母が呼ぶかと喜びて こけつまろびつ馳せ下り 辺りを見れども母は無く 走り回りし甲斐もなく 西や東に駆け回り 石や木の根につまづきて 手足を血潮に染めながら 幼子哀れな声をあげ もう父上はおわさぬか のう懐かしや母上と この世の親を冥土より 慕い焦がれる不憫さよ 泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石まくら 泣く泣く寝入る不憫さよ されども河原のことなれば さよ吹く風が身にしみて まちもや一度目をさまし 父上なつかし母ゆかし ここやかしこと泣き歩く 折しも西の谷間より 能化の地蔵大菩薩 右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい ゆるぎ出てさせたまいつつ 幼き者のそばにより 何を嘆くかみどりごよ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し いつまで親を慕うとぞ 娑婆の親には会えぬとぞ 今日より後は我をこそ 冥土の親と思うべし 幼き者を御衣(みごろも)の 袖やたもとに抱き入れて 哀れみたまうぞ有難や いまだ歩まぬみどりごも 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌に 泣く幼子も抱き上げ なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙 袈裟や衣にしたりつつ 助けたまうぞ有難や 大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩にしくはなく これを思えば皆人よ 子を先立てし人々は 悲しく思えば西へ行き 残る我が身も今しばし 命の終るその時は 同じはちすのうてなにて 導き給え地蔵尊 両手を合して願うなり
南無大悲の地蔵尊 南無阿弥陀仏阿弥陀仏
おん か か か び さんま えい そわか
奄 訶 訶 訶 尾 娑摩 曳 娑婆訶
5、今昔物語集にはお地蔵様のお陰の話が多く載っています。
「地蔵菩薩の変化に値遇せんと願へる第一」はお地蔵様に会いたいと諸国を巡っていた僧がついに地蔵丸というお地蔵様の化身の少年に会う話。「紀用方、地蔵菩薩に仕えたてまつりて利益を蒙れる語第二」には紀用方という邪見勇猛の武士が地蔵菩薩を信仰し始め縁日の24日だけは清浄な生活をし、お地蔵様を念じていたらついに出家でき、十余年の後苦しまずに地蔵、阿弥陀の名号を唱えながら息をひきとったという話がのっています。「地蔵菩薩、小さき僧の形に変じて箭を受けたること第三」には近江の国の検非違使平諸道の父が敵と戦っているとき矢を射つくしてしまって「わが氏寺の地蔵菩薩われを助けたまえ」と念じると小さき僧あらわれて矢を拾っては諸道の父に与えた。お蔭で諸道の父は助かったが、途中この僧の背中に矢があたったとみるまに僧は姿を消した。あとで氏寺に詣でてみると御本尊の地蔵菩薩の背中に矢が刺さっていた。「あはれにかなしくて、なくなく礼拝」した、という話があります。「地蔵菩薩を念ずるによりて主に殺さるる難を遁れたること第四」には備中の藤原文時という武士が家来を殺そうとして郎党に離れたところに連れて行かせた。そのとき僧が三人きて今日24日は地蔵菩薩の日であるから殺生はやめよと説教する。文時は説教を聞き思いとどまるがすでに郎党は家来を殺戮すべく出発してしまっていた。家来の方は連行される道すがらお地蔵様に「今日は24日でお地蔵様の御日です。お助けくださったらお像をおつくりします」と必死に拝んだ。すると小さい僧が走ってきて主の中止指令を伝えて消えた。「これひとえに地蔵菩薩を念じ奉る故なり」とあります。「夢の告げによりて泥の中より地蔵を堀出せる語第五」には陸奥の武士が夢でお地蔵様から廃寺あとに多くの仏像が埋まっていることを告げられ掘り出したことが書かれています。「地蔵菩薩、火の難にあひて自ら堂を出でたる語第六」には第25番札所 宝珠山 津照寺の近辺で火災があったとき御本尊のお地蔵様が自ら寺を出て人々に火災を知らせてという話が載っています。「地蔵菩薩の教えによりて播磨の国の清水寺を始めたること第七」には播磨の国の貧しい僧蔵明が夢にお地蔵様から宝珠を与えられて豊かになり、清水寺を創建できたといいます。
6、十三佛ではお地蔵様は五七日目を導いて下さる佛様です。
7、地蔵菩薩の寺としては関東では巣鴨の刺抜き地蔵が有名ですが、法隆寺には平安時代前期の国宝の地蔵菩薩像があり、 木之本地蔵院、広隆寺、六波羅蜜寺、 浄瑠璃寺、帯解寺
東大寺等には重要文化財 の地蔵菩薩があります。四国八十八所でも五番の地蔵寺、十九番立江寺、二十番鶴林寺、二十五番津照寺がお地蔵様ご本尊の寺です。
8、私自身思い出すと、生家の寺には門の前に一体、境内に三体のお地蔵様があり、幼いときよくまとわりついて遊ばせていただきました。また物心ついてからは毎日おまいりし、大きなお蔭を頂きました。東京では護国寺の一言地蔵様に20年以上前願掛けをしてこれもありがたいお蔭を頂きました。こうして思い出すとお地蔵様には筆舌につくしがたいお蔭を何度も頂いています。
2、お地蔵様はお釈迦様が入滅されてから、弥勒菩薩が降臨されるまでの56億7000万年の無仏の時代の衆生をみちびいてくださいます。地蔵菩薩本願経にはお地蔵様の28種の功徳が説かれています。
「「一者天龍護念、二者善果日増、三者集聖上因、四者菩提不退、五者衣食豊足、六者疾疫不臨、七者離水火災、八者無盗賊厄、九者人見欽敬、十者神鬼助持、十一者女転男身、十二者為王臣女、十三者端正相好、十四者多生天上、十五者或為帝王、十六者宿智命通、十七者有求皆従、十八者眷属歓楽、十九者諸横消滅、二十者業道永除、二十一者去処盡通、二十二者夜夢安楽、二十三者先亡離苦、二十四者宿福受生、二十五者諸聖讃歎、二十六者聰明利根、二十七者饒慈愍心、二十八者畢竟成仏 」とあります。
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また六道の衆生を救済してくださるという六地蔵の信仰も生まれました。地獄道は宝珠、錫杖を持つ大定智悲地蔵(地蔵菩薩) 、 餓鬼道は宝珠与願印 の大徳清淨地蔵(宝手菩薩)、畜生道は如意宝珠 を持つ大光明地蔵(宝処菩薩)、 修羅道は宝珠、梵篋 を持つ清淨無垢地蔵(宝印手地蔵)、人間界は 宝珠 施無畏印 の大清淨地蔵(持地菩薩) 、天界は宝珠、経巻 を持つ大堅固地蔵(堅固意菩薩) が救ってくださるといわれます。
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また、子どもを守るということで、賽の河原地蔵和讃も生れました。
空也上人作といわれる(賽の河原)地蔵和讃です。
「帰命頂礼地蔵尊 無仏世界の能化なり これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり この世に生まれし甲斐もなく 親に先立つありさまは 諸事の哀れをとどめたり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが さいの河原に集まりて 苦患(くげん)を受くるぞ悲しけれ 娑婆と違いておさなごの 雨露しのぐ住処さえ 無ければ涙の絶え間無し 河原に明け暮れ野宿して 西に向いて父恋し 東に向いて母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり げに頼みなきみどりごが 昔は親のなさけにて 母の添い寝に幾度の 乳を飲まするのみならず 荒らき風にも当てじとて 綾や錦に身をまとい その慈しみ浅からず 然るに今の有様は 身に一重さえ着物無く 雨の降る日は雨に濡れ 雪降るその日は雪中に 凍えて皆みな悲しめど 娑婆と違いて誰一人 哀れむ人があらずなの ここに集まるおさなごは 小石小石を持ち運び これにて回向の塔を積む 手足石にて擦れただれ 指より出づる血のしずく からだを朱に染めなして 一重つんでは幼子が 紅葉のような手を合わせ 父上菩提と伏し拝む 二重つんでは手を合わし 母上菩提と回向する 三重つんではふるさとに 残る兄弟我がためと 礼拝回向ぞしおらしや 昼は各々遊べども 日も入相のその頃に 地獄の鬼が現れて 幼き者の側に寄り やれ汝らは何をする 娑婆と思うて甘えるな ここは冥土の旅なるぞ 娑婆に残りし父母は 今日は初七日、二七日 四十九日や百箇日 追善供養のその暇に ただ明け暮れに汝らの 形見に残せし手遊びの 太鼓人形風車 着物を見ては泣き嘆き 達者な子供を見るにつけ なぜに我が子は死んだかと 酷や可哀や不憫やと 親の嘆きは汝らの 責め苦を受くる種となる 必ず我を恨むなと 言いつつ金棒振り上げて 積んだる塔を押し崩し 汝らが積むこの塔は ゆがみがちにて見苦しく かくては功徳になりがたし とくとくこれを積み直し 成仏願えと責めかける やれ恐ろしと幼子は 南や北や西東 こけつまろびつ逃げ回る なおも獄卒金棒を 振りかざしつつ無惨にも あまたの幼子睨み付け 既に打たんとするときに 幼子怖さやる瀬無く その場に座りて手を合わせ 熱き涙を流しつつ 許したまえと伏し拝む 拝めど無慈悲の鬼なれば 取り付く幼子はねのけて 汝ら罪なく思うかよ 母の胎内十月の内 苦痛さまざま生まれ出て 三年五年七歳と わずか一期に先だって 父母に嘆きを掛くること だいいち重き罪ぞかし 娑婆にありしその時に 母の乳房に取りついて 乳の出でざるその時は 責まりて胸を打ち叩く 母はこれを忍べども などて報いの無かるべき 胸を叩くその音は 奈落の底に鳴り響く 父が抱かんとするときに 母を離れず泣く声は 八万地獄に響くなり 父の涙は火の雨と なりてその身に振りかかり 母の涙は氷となりて その身をとずる嘆きこそ 子故の闇の呵責なれ かかる罪とがある故に さいの河原に迷い来て 長き苦患を受くるとぞ 言いつつまたもや打たんとす やれ恐ろしと幼子が 両手合わせて伏し拝み 許したまえと泣き叫ぶ 鬼はそのまま消え失せる 河原の中に流れあり 娑婆にて嘆く父母の 一念届きて影映れば のう懐かしの父母や 飢えを救いてたび給えと 乳房を慕いて這い寄れば 影はたちまち消え失せて 水は炎と燃え上がり その身を焦がして倒れつつ 絶え入ることは数知れず 峰の嵐が聞こえれば 父かと思うて馳せ上がり 辺りを見れども父は来ず 谷の流れの音すれば 母が呼ぶかと喜びて こけつまろびつ馳せ下り 辺りを見れども母は無く 走り回りし甲斐もなく 西や東に駆け回り 石や木の根につまづきて 手足を血潮に染めながら 幼子哀れな声をあげ もう父上はおわさぬか のう懐かしや母上と この世の親を冥土より 慕い焦がれる不憫さよ 泣く泣くその場に打ち倒れ 砂をひとねの石まくら 泣く泣く寝入る不憫さよ されども河原のことなれば さよ吹く風が身にしみて まちもや一度目をさまし 父上なつかし母ゆかし ここやかしこと泣き歩く 折しも西の谷間より 能化の地蔵大菩薩 右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい ゆるぎ出てさせたまいつつ 幼き者のそばにより 何を嘆くかみどりごよ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し いつまで親を慕うとぞ 娑婆の親には会えぬとぞ 今日より後は我をこそ 冥土の親と思うべし 幼き者を御衣(みごろも)の 袖やたもとに抱き入れて 哀れみたまうぞ有難や いまだ歩まぬみどりごも 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌に 泣く幼子も抱き上げ なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙 袈裟や衣にしたりつつ 助けたまうぞ有難や 大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩にしくはなく これを思えば皆人よ 子を先立てし人々は 悲しく思えば西へ行き 残る我が身も今しばし 命の終るその時は 同じはちすのうてなにて 導き給え地蔵尊 両手を合して願うなり
南無大悲の地蔵尊 南無阿弥陀仏阿弥陀仏
おん か か か び さんま えい そわか
奄 訶 訶 訶 尾 娑摩 曳 娑婆訶
5、今昔物語集にはお地蔵様のお陰の話が多く載っています。
「地蔵菩薩の変化に値遇せんと願へる第一」はお地蔵様に会いたいと諸国を巡っていた僧がついに地蔵丸というお地蔵様の化身の少年に会う話。「紀用方、地蔵菩薩に仕えたてまつりて利益を蒙れる語第二」には紀用方という邪見勇猛の武士が地蔵菩薩を信仰し始め縁日の24日だけは清浄な生活をし、お地蔵様を念じていたらついに出家でき、十余年の後苦しまずに地蔵、阿弥陀の名号を唱えながら息をひきとったという話がのっています。「地蔵菩薩、小さき僧の形に変じて箭を受けたること第三」には近江の国の検非違使平諸道の父が敵と戦っているとき矢を射つくしてしまって「わが氏寺の地蔵菩薩われを助けたまえ」と念じると小さき僧あらわれて矢を拾っては諸道の父に与えた。お蔭で諸道の父は助かったが、途中この僧の背中に矢があたったとみるまに僧は姿を消した。あとで氏寺に詣でてみると御本尊の地蔵菩薩の背中に矢が刺さっていた。「あはれにかなしくて、なくなく礼拝」した、という話があります。「地蔵菩薩を念ずるによりて主に殺さるる難を遁れたること第四」には備中の藤原文時という武士が家来を殺そうとして郎党に離れたところに連れて行かせた。そのとき僧が三人きて今日24日は地蔵菩薩の日であるから殺生はやめよと説教する。文時は説教を聞き思いとどまるがすでに郎党は家来を殺戮すべく出発してしまっていた。家来の方は連行される道すがらお地蔵様に「今日は24日でお地蔵様の御日です。お助けくださったらお像をおつくりします」と必死に拝んだ。すると小さい僧が走ってきて主の中止指令を伝えて消えた。「これひとえに地蔵菩薩を念じ奉る故なり」とあります。「夢の告げによりて泥の中より地蔵を堀出せる語第五」には陸奥の武士が夢でお地蔵様から廃寺あとに多くの仏像が埋まっていることを告げられ掘り出したことが書かれています。「地蔵菩薩、火の難にあひて自ら堂を出でたる語第六」には第25番札所 宝珠山 津照寺の近辺で火災があったとき御本尊のお地蔵様が自ら寺を出て人々に火災を知らせてという話が載っています。「地蔵菩薩の教えによりて播磨の国の清水寺を始めたること第七」には播磨の国の貧しい僧蔵明が夢にお地蔵様から宝珠を与えられて豊かになり、清水寺を創建できたといいます。
6、十三佛ではお地蔵様は五七日目を導いて下さる佛様です。
7、地蔵菩薩の寺としては関東では巣鴨の刺抜き地蔵が有名ですが、法隆寺には平安時代前期の国宝の地蔵菩薩像があり、 木之本地蔵院、広隆寺、六波羅蜜寺、 浄瑠璃寺、帯解寺
東大寺等には重要文化財 の地蔵菩薩があります。四国八十八所でも五番の地蔵寺、十九番立江寺、二十番鶴林寺、二十五番津照寺がお地蔵様ご本尊の寺です。
8、私自身思い出すと、生家の寺には門の前に一体、境内に三体のお地蔵様があり、幼いときよくまとわりついて遊ばせていただきました。また物心ついてからは毎日おまいりし、大きなお蔭を頂きました。東京では護国寺の一言地蔵様に20年以上前願掛けをしてこれもありがたいお蔭を頂きました。こうして思い出すとお地蔵様には筆舌につくしがたいお蔭を何度も頂いています。