福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

様々な業の姿があるのはなぜか?

2019-07-03 | 諸経
Q「衆生も空であり実体はないはずなのに様々な業の姿があるのはなぜか?」
A「それは果報としての業の姿を自ら作り出ているためである。」

以下、華厳経・明難品・第三段落「業果甚深」の項の和訳と原文。
 文殊菩薩は、宝首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は、地水火風の四元素から成っており、そのなかに我の実体はないし我に依って執着される対象もない。しかるに、どういうわけで衆生は、苦・楽を受け、善・悪をなし、また、心掛けのきれいなものがあり・姿の端正なものがあり、報いの多・少があり、現世に報いが来るものと来世に報いが来るものがあるのか?存在の根底や法則には善悪がないのになぜ業があるのか。」

 そのとき、宝首菩薩はつぎのように答える。
「それぞれ行なうところの業にしたがって、果報を受けているのである。造物主がいるわけではないし実体も存在しない。このように諸仏は説きたもうている。
 たとえば、鏡は対象により様々な影像を写すが実体はないように、業の本性もそれとおなじである。
 あるいは、田に撒いた種は相互を知らずに芽を出すように、業の本性もまたそれとおなじである。
魔術師が十字街頭で様々な姿を現じてみせるようなもので業の本性も同じである。
操り人形がよく種々の声を出すが自分の声・他人の声という区別がないように、業の本性も同じである。
 また、おおくの鳥が、それぞれちがった声をだして結果として色々の聲色になるように、業の本性もまた、それとおなじである。
父母の因縁があえば子ができるが子はどこから来るということもないがしかも身体がそれぞれ別であるように、業の本性もそれと同じである。
 また、地獄で受ける苦しみは外部からくるのではないように、業の本性もまたそれとおなじである。
転輪聖王は七寶を具足するがその七寶はどこから来るということもないように、業の本性も同じである。
諸々の世界に勝利もあれば敗戦もあるが勝敗はどこから来るということもないように業の本性も同じである。」



華厳経明難品 原文、
「爾時文殊師利、寶首菩薩に問うて言く、「佛子よ、一切衆生の四大は悉く非我・非我所なり。云何が衆生は或は苦を受け樂を受け、或は作惡し作善す。或は内端正なるあり或は外端正なるある。或は少しの報を受け
或は多くの報を受く。或は現報あり或は後報あるや。
然も諸法の性は無善無惡なり」。
爾時、寶首菩薩は偈を以て答て言く、
「 所行の諸業に随ひて 果報を受るも亦た然なり。
造者は無所有なり。 諸佛は如是に説きたまふ。
猶し明淨鏡の 其面に随て像現ずるも
内外無所有なるが如し、 業性も亦た如是なり。
亦、田の種子は 各各相ひ知ずして
自然に能く因と作るが如く 業性も亦た如是なり。
亦、大幻師の 彼の四衢道にありて
種種色を示現する如く 業性も亦た如是なり。
匠の木人を造りて 能く種種の聲を出さしむるも
彼には我・非我なきが如く 業性も亦た如是なり。
亦、衆鳥類の 声を出して音不同にして
能く種種の聲を作すが如く 業性も亦た如是なり。
親の因縁會ば 受生も來者無く
諸根各別異なるが如く 業性も亦た如是なり。
大地獄中に 衆生苦惱を受るも
苦惱は無來處なるが如く 業性も亦た如是なり。
亦、轉輪王の勝れた七寶を成就するも
彼、從來する所無がごとく 業性も亦た如是なり。
亦、諸世界に成有り或は敗れる有るも成敗は來去無きが如く、 業性も亦た如是なり。
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