「昇沈の差別は心にありて、行にあらず」
「往生要集」に「問ふ。 凡夫は勤修するに堪へず。 なんぞ虚しく弘願を発さんや。
答ふ。 たとひ勤修に堪へずとも、なほすべからく悲願を発すべし。 その益、無量なり。 前後に明かすがごとし。 調達(提婆達多)は六万蔵の経を誦せしも、なほ那落を免れず。 慈童は一念の悲願を発して、たちまちに兜率に生るることを得たり(注)。 すなはち知りぬ。 昇沈の差別は心にありて、行にあらず。」
((注)「雑宝蔵経巻一」に、釈尊は過去世に長者の子、慈童女として生れ、すべての苦しみ悩む者を教え導こうと誓って、死後、兜率天に生れたと。)
行を重んずる寺家にも必ずしも順風満帆といえない人生の事例が多いことを多く見て来ましたが、ひょっとしてこれが理由かとも思いました。