福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

高野十傑

2020-08-31 | 法話
高野十傑
1祈親・2明算・3覺海・4法性・5道範・6尚祚・7信日・8信堅・9真弁・10覺和・11玄海・12宥快

1、祈親上人
高野山再興者。一に持経上人または祈親と號す。俗姓河合氏、和州葛城郡楠本邑の人なり。七歳にして父を喪ひ、能く母に事へ、十三歳興福寺に入り法相宗を学び、子島真興に師事し入寺仙救に随ひて密灌を受く。母歿するや常に法華経を讀誦して二親に追薦す。故に祈親または持経の名を得たり。年六十、両親再生の地を知らんと欲し大和長谷寺観音の宝前に参籠して好相を得、その霊告を蒙りて高野山に登る。時に長和五年1016三月なり。即ち弘法大師の霊廟に詣り、青苔を攞り燧を把りて誓て曰く、今此の石火、火億歳を伝へしむべくは炷苔上に薫らしむべし、と。言下一鑚するに鑚火忽ちに苔面に迸りて炷烟を生ず。師喜躍して之を千載の後に傳ふ。今奥院拝殿中の持経灯篭これなりと云ふ。当時高野山は検校雅真入滅して荒蕪甚だし、此に於いて師は之が再興を誓ひ、東室を営みて是に住し、長和五年1016五月検校成得を天野神宮院より迎へ、寛仁元年1017二月彼岸会を始行し、此の歳九枝灯を御影堂に挑ぐ。治安元年1021三月紀州田中庄神崎に於いて神足明算を得。翌年成得、職を辞して峯杲これに代わり、師とともに一山の人法興隆に盡す。永承二年1047二月二日釈迦文院にて寂す。壽九十.正平五年四月晦日後村上天皇勅して法印大和尚位を追贈し、常照の謚号を賜へり。(以上密教大辞典)

2、明算
中院流祖、高野山中興。一に中院御坊と言ひ、俗姓は佐藤氏。紀州那賀郡田中庄神崎邑の人。治安元年誕生。長元四年1031十一歳の春、祈親上人に伴はれて高野山に登り東室に入り、翌五年上人に随って薙髪修学す。長久元年春中院に移住し、永承四年1049八月釈王寺頼尋に就いて伝法灌頂を受け、天喜五年1057四月始めて御影堂に十六口の山籠僧を申置し、御影供を始行す。同六年七月小野曼荼羅寺に至り、成尊に謁して大日経並びに疏を傳受し、康平七年1064春、諸尊の印契秘訣を受け、鑽燧若干年、遂に延久四年1072十二月二十七日成尊を拝して伝法灌頂を受け、真然相傳の南山の大事を本として小野法流の源底を究む。時に五十二歳、明算即ち山に帰り翌年春密壇を中院に開きて法化を布くや、名匠受法する者多く、その流れを中院流と称し、法脈益々繁栄せり。承保二年1075春、生縁の地神崎村に一寺を建立して自作愛染明王像を安置し、龍蔵院と号す。応徳三年1086九月高野山壇上の灌頂院落慶し(性信親王、寛意造立)三口の供僧を置かるるや、明算その一員となる。寛治四年1090春推され高野山検校に補し一山の興隆と法儀の制定に尽力す。翌年正月金堂修正会を始行し、同二月十九日白河法皇高野に御幸あり。二十日宸翰法華経一部、理趣経三巻を廟前に奉納したまひ、御参籠の上、法華八講及び理趣三昧を勤修したまふ。明算、理趣三昧の供養導師を勤仕しこの日法賞として安芸国能美庄を永代寺家に賜ふ。嘉保元年1094七月昼夜不断理趣三昧を中院大堂に始行し、以て後格と為す。翌二年二月宣旨を蒙りて大塔造営のことを始め、同日大華表を再立し、承徳元年1097三月奥の院拝殿落慶し、その唱導師を勤め、同七月昼夜不断尊勝陀羅尼会を西御堂に始行す。康和元年1099二月関白藤原師實登山し、自筆の理趣・法華の二経を廟前に埋納せし時、その法導師を勤め、翌年十月大塔造営なる。翌三年六月十五日寛意(性信入道親王のもとで真言宗広沢流の法を受け、白河天皇の護持僧となった。1086年(応徳3年)性信入道親王の依頼を受けて高野山に灌頂院を創建し、権少僧都・円宗寺別当に任じられた。1088年(応徳5年)白河上皇の高野山行幸の際、命により御影堂を開扉している。孔雀経法を修して霊験があったとされ、権大僧都・東寺二長者に任じられた。1092年(寛治6年)高野山往生院谷に隠棲し、遍照光院を中興した。当時華美であった広沢流を嫌いその復古につとめ、その後観音院流の祖とされた)寂す。明算哀嘆し以来春秋二季の結縁灌頂を恒格となし、春季は寛意、秋季は性信親王の追薦に資することとなす。同四年二月明算中院大堂に於いて独り経行せしに、空智・空圓の二僧正化現して教導す。明算その教示を蒙り同七月より金堂において中曲理種三昧の法会を発起せり。同五年大塔五佛御衣木加持を行ひ同十一月大塔落慶供養導師を勤め十二月山籠僧三口を申加せらる。嘉承元年1106七月勅して大塔供養三口を置かれ同十一月大塔供養領として名手庄屋を賜ふ。治山十六年、よく師祈親の後を受け祖山興隆の業を完成し同年1106十一月十一日中院にて寂す。壽八十六.付法に良禅・教真・明範・真譽・明寂等・・(以上密教大辞典より)

3、覚海
南山第三十七世執行検校法橋上人位覚海傳  金剛峰寺沙門 維寶 編輯
「師諱は覚海、南勝と号す。但馬の国朝来郡の人なり。氏族未詳。夙に祝髪して内外の典籍を習ひ、晨夕に勤めて瑜伽の妙極を究む。ついに建の屋の興光寺の學頭となる。恭しく大師の旧跡を慕ひ、紀陽高野山に樊さいして勝地を求めて、草庵を構す。明師を選びて事業を受け、二転の妙果(菩提と涅槃)を期す。故に院に開敷華王の称号あり。生を北陸に受け、南山において励行す。故に自ら南方寶部南勝の名字を呼ぶ。南渓・南勝はみなこれ大悲萬行勤修寶部の内證と為す也。碩に大師深密の教義を学び、ひろく釈尊闡演(せんえん・・ひらくこと)の幽頤(ゆうい・・微妙な教え)を曉る(さとる)。三部五部(三部は胎蔵界の佛部・蓮華部・金剛部のこと。五部は、金剛界の佛部・宝部・金剛部・蓮華部・羯磨部のこと)の法水、心臓に淘湧し、五臓八臓の教風、器界に飄颻(ひょうよう・・つむじかぜ)す。大楽院寛秀法印の室に入って、受職灌頂の印璽を蒙り、瑜伽の奥義に徹し、常に最上無上の微密を談ず。闔山の浄侶を導引して四蔓(宇宙の森羅万象たる大・三・法・羯の曼荼羅)の覚蘂(かくずい・・覚心)を賁り(かざり)、普天の信人を誘提して三密の果実を授く。深慈亭毒(ていどく・・そだてやしなう)鄙少を漏らすことあるに非ず。宏悲憐愍ひとしく貴老に及ぶ。宝性の法性、正智の道範(いずれも人の名)、その徳澤を受け、心南の尚祥、十輪の真弁(いずれも人の名)、彼の余光を挑く。しかるに法性等の四豪傑、同じく流れを一源に汲み、ともに心を三密にあそばしむ。覚海の金波を分って醍醐の法味を嘗む。しかるに四傑の所伝、同一なるあるに非ざるに似たる所以んはなんぞや。曰く、法性(密教大辞典に、「法性は高野山寶性院開基。高野山八傑の一人。正智院明任の神足にして神府独朗・慧辨利快。覺海法印に就きて宗義を究め三宝院憲深に従って、事相の源底を叩き、嘗って高野山に法性院を建てて密乗を宣揚す。仁治三年大伝法院方と金剛峰寺方の争闘に連座し、出雲国に配流され寛元三年十月二十一日に謫地にて寂。師常に道範等に語って曰く「二十一日は高祖入定の日なり。我必ず其の日を以て逝化せん」と。はたしてその言の如し。傳へいふ法性の足下に大師の字紋あり。門弟以て大師の分身となし、その肖像を大師の真影と斉しくす。門人その遺跡を額して法性院といひ、後に「法」を「寶」となし「寶性院」となす。」)
の如きは唯、海師の深義を用ひ、真辨(13世紀。高野山八傑の一人。十輪院に住して講席を張り、學誉高し。高野山検校を二度勤める。)はすなわち浅略の義を編み、道範(高野山正智院の学匠。高野山八傑の一人。正智院明任に随いて剃髪、その後明任より具支灌頂を受け、華王院覺海に宗義を問い、禅林寺静遍並びに金剛王院實賢に受法、御室守覺法親王に就いて廣澤流の源底を尽くす。かくて高野山に帰り、中院流の極秘を明任に受け、正智院に住し法幢を樹立す。仁治四年大伝法院事件に坐し讃岐に配流される。道範すなわち大師の旧跡を巡礼し、また善通寺に寓して講席を開き遠近の道俗その化益を蒙らざるなし。謫居七年、赦に遭ひて歸山、旧居寶光院に住すも建長四年五月二十二日寂す。壽七十五。)
及び尚祥は深浅両義あわせて述ふ。弁深を傳へざるに非ざるなり。性なんぞ浅をもらさんや。範等の四豪、各々海師の瓶水を汲みて、全く各自の諸器に潟ぐなり。四資ともに密象の全体を伝えたり。だれか箕帚(きそう・・みの、ほうき)の異執を謂んや。ついに我が朝順徳院建保五年1217丁丑にあたって、執行検校法橋上人の位に擢らる(抜擢された)。六年戊寅、高野と吉野相論あって、春正月吉野山天台春賢僧正、領地の郷民を引率して高野山所領花園の荘内大滝の郷に於いて、牓爾(ぼうじ・・ふだ)を標し、吉野領といふ高札を設く。ならびに御廟の橋下においても、吉野領と標榜す。而しより精進結界の霊場を以て殺生汚穢の猟地となす。幾ばかりの狼藉不道、枚挙にいとまあらず。ついに乃ち院奏を経て厳重の起請文を捧げて、非理の事業を制禁すといえども、成敗決断の糾明無きによって、一山の大衆憤懣して曰く、「夫れ当山は三鈷點着の霊蹟、日域無双の禅窟なり。常恒に一天の静慮君臣の豊穣を祝祷するといえども、理非分別分明の賞罰無き,則ち、僧侶の機縁既に尽くるか。法滅の時候すでに至れるか。國界運傾くか。天魔便りを得るかと衆議評決して大小の仏事を廃絶し、離山逐電を催す。承久元年1220己卯八月五日、大衆蜂起して一味の神水を飲み、丹生高野両大明神に誓って,曰く、三千衆徒の臆念を合糅して速疾に怨敵を退散し、再び仏法を興隆せん。すなわち許多の鉄釘を以て、室扉を緘閇(かんぺい・・とざす)し、大塔の庭上に僉議して、愁涙袍袖を沾す。即日まさに山門を出で去らんとなり。ここにおいて検校法橋(覚海)、忽ちに大悲伝法のまさに絶滅せんとして曰く、「老法師は年来大師密法の擁護助扶の者なり。齢すでに九旬に垂んとす。命終最も近し。一日今離山を引て我閻魔の庁に至って、我が辞によって大師の仏法寿命一日延存するなり。これをもって一善を証せんとなり。(自分が閻魔の庁におもむいて一日の高野山の延命をおねがいしてくる)」ここによって引いて両日を延べおわりぬ(この覚海のことばで高野山の大衆の離山を2日延期した)。八日辰の刻奥の院の廟扉を閉塞し、巳の上刻、大衆一同に山門を出で去る。同二十三日備前の僧都長海正別当を以て使者として請によって院宣くだされおわんぬ。之によって同二十七日、老輩少々還り住す。大衆漸漸帰山の志を発す。是れ乃ち海検校の大善巧方便力による。非法張本の春賢僧正は同十二月俄かに夭滅す。乃至月卿雲客も正理を抑止して、吉野の非義を揚褒する。数輩はすべて三地両所の冥罰を蒙る。野山記にみえたり。有る時師みずから誓ひて懇祷していわく「吾既に産を鄙北に受け、遮那法を南山に習ふ。現に今山頭にあって務職に任ず。奇縁思うべからず、測るべからず。唯願わくは三世の勃駄(仏陀)、十方の索多(薩埵)、およびわが大師、吾にわが前世を示したまへ。如何が、此の如くの得難き人身を得、遇ひがたき密法に逢うことを得るや。冒地(悟り)の得難きには非ず、この教えに逢うことの易からざるなり」と。一心に精誠を抽て、五体を地に擲ち、目に血涙を流し、身の所在を忘る。誠を盡して命根の絶えなんとするにいたる。ときに大師欻爾(たちまち)に真形を現わす。和柔類まれに容顔霊威あり、和雅の梵音を挙げて幽声耳に徹す。「汝、はじめは是、摂州の南海に産し、形を小蛤に現わす。波にただよひ、砂石に交糅して流回幾千載ぞ。たまたま唄音風に順って碧波に入る。蛤聞熏の力によって海浪激揚して自ら天王寺西の浜畔に著く。童僕あり、戯れ抛ちて天王寺金堂の前の床に提げ置く。誦経読誦の声を聞くによって第二生に牛身を受く。重きを負うて遠きに到る。牧童鞭をくわえ蚊蚋(ぶんぜい・・か・ぶよ)肉を噛む。余縁なお朽ちず。一日大乗般若を書する料紙を荷負す。故に生を転じて第三生に赤馬の身を受く。順縁熏発して幸いに信輩、熊野に詣する所乗となる。更に生を転じて第四生に柴燈を燃やすの人身と成ることを得て常に火の光を以て道路を照らす故に智度の浄行漸漸に熏増して第五生に吾が廟前密供修法の給仕者となることを得たり。晨天には閼伽を汲み運び、昏には浄花を採り摘み、香を抹して熏煙を凝らし、飯を炊いて滋味を調ふ。耳には常に三密の理趣を聞き、目にはみずから五観の妙相を見る。是の如きの冥熏加持の力用によって現に今、第六生に法門の棟梁南山検校の鴻職を感受す。第七生には必ず秘密の法を護るの威猛の依身を受けん。身体羽翼を生じて飛行自在なり。修鼻突出して彎笋(わんじゅん・・曲がった筍)の如く、遍身赤黒にして毛髪銅針に類す。是乃ち我が末弟驕慢放逸にして酒食に耽り、仏法王法を軽んじて他の財宝を貪り、汚穢不浄の身を以て、伽藍に渉登し、高歌狂乱信者の機嫌を毀ふ。引いては吾密法を壊し、猥りに狂族を夥すなり。此の如くの異容にあらずんば則いかでか治罰賞正の誘進を為さんや。魔佛一如、生佛不二、修羅即遮那なり。汝常に是れ憶念するところなり」。言おわって麗麗たる遺韻山谷に伝わり、馥郁たる異香野外に薫ず。感涙肝に銘じ、身心忙昧たり。故に世人称して「南山の碩学、七生を悟れる人」といふ。貞応二年1223八月十七日、毘盧の印を結んで、滅を唱ふ。春秋八十二、境内の池辺に葬る。廟塔を構へ、奠賽を設く。或は云う、遍照岡の傍らに葬ると。現に今、崇祠あって廟窟と号す。後人毎月十七日、燈燭を掲げて、如在の祭祀を厳かにす。霊威往々に懲賞を示すなり。
賛に曰く、律に、仏、蛤の縁を説きたまふ。池中を出でて草根に依託して仏の説法を聞く。牧童誤って杖をもって之を殺す。聞法の縁をもって忉利天に生ず。遂に初果を得たりと。
(善見律毘婆沙「爾時佛在瞻婆國。於迦羅池邊。爲瞻婆人説法。是時池中有一蛤。聞佛説法聲歡喜。即從池出入草根下。是時有一牧牛人。見大衆圍遶聽佛説法。即往到佛所。欲聞法故以杖刺地。誤著蛤頭。蛤即命終生忉利天。爲忉利天王。以其福報故。宮殿縱廣正十二由旬。於是蛤天人。霍然而悟。見諸妓女娯樂音聲。悟已尋即思惟。我先爲畜生。何因縁故生此天宮。即以天眼觀。先於池邊聽佛説法。以此功徳得此果報。蛤天人即乘宮殿。往至佛所頭頂禮足。佛知故問。汝是何人忽禮我足。神通光明相好無比。照徹此間。蛤天人以偈而答
往昔爲蛤身 於水中覓食
聞佛説法聲 出至草根下
有一牧牛人 持杖來聽法
杖攙刺我頭 命終生天上
佛以蛤天人所説偈。爲四衆説法。是時衆中八萬四千人。皆得道跡。蛤天人得須陀洹
果。於是蛤天人得道果已。歡喜含笑而去。」)

海師の前縁、頗る類することあり。畏をあらわし、法を護り、猛をもって凶を罰す。菅相の火雷、愛宕の神魂、琳賢の目精、維範の修蛇、神農の牛頭(覚禅鈔では、中国の神農が牛頭天王とされる。)周公の断菑(だんし・折れ曲がった木。荀子に「周公之状,身如断菑」)
大聖大賢形貌をもって見るべからず。火を吐き、風を起こし、雨を灑そそぎ、水に激す、却って止めて能く静かにす。空を凌ぎ、地を透る、自ら魔界に入って悪波旬を拒き、災を攘ひ、福を迎ふ。但し國建の屋の輿光の旧址、土俗郷民寸も耕すことを許さず。遍照が岡崗、枯枝落葉毫釐もこれを採れば、則ち厳祟を施す。その威その霊、信ずべし怖るべし。その悉地を成すること上か中か下か、すべて即身の佛なり。嗚呼奇なるかな。遊戯三昧。



覺海(以下密教大辞典等に依ります。)
高野山華王院の学僧。和泉守雅隆の子。高野山大乗院寛秀の室に入り事教を究め、醍醐山定海座主に随い傳法灌頂を受け、随心院親厳・石山寺朗澄に重ねて受法。後高野山に還り草庵を結び名けて華王院とす。時の俊傑寶性院法性、正智院道範、心南院尚祚、十輪院眞弁等その門下に集まる。高野山検校をつとめ、承久二年職を辞して華王院に退居。下品の悉地を欣求。貞応二年八月十七日大日の秘印を結びて入寂。世寿八十二。著に「覚海法橋法語」。仏法の護持のため天狗(狗名:横川覚海坊)になり、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説も高野山内に残っている。この伝説を基に、谷崎潤一郎が『覚海上人天狗になる事』という短編を執筆。

4、法性
法性は高野八傑の一人。高野山寶性院開基。字は覚圓、正智院明任の神足にして神府独朗、慧辨利快なり。覚海法将に就きて宗義を究め、三寶院憲深に従って事相の源底を叩き、嘗て高野山に法性院を建て盛んに密乗を宣揚し、英彦風猷を慕てその門に集まる者多し。仁治三年1243秋、大傳法院方と金剛峰寺方との争議に連座し出雲国に配流せられ、寛元三年1245十月二十一日謫所において寂す。著に顕密問答鈔あり。師常に同法道範等に語って曰く「二十一日は高祖大師入定の日なり。我必ず其の日を以て逝化せん」と。果たして其の言の如し。傳へいふ、法性の足下に空海の字紋あり、門弟もって弘法大師の分身となし、その肖像を大師の真影と斉しくす。又門人その遺跡を尚び額して法性院といひ、中古、法を寶に改め門主寺となす。(南海流浪記、本朝高僧傳十四、高野春秋八、野峰名徳傳下)(以上密教大辞典)

5、道範
道範は高野山正智院の学匠。高野山八傑の一人。字は本覺、和泉国船尾の人也。年甫はじめて十四、高野山に登り正智院明任に随て剃髪、志行精勤、學解最も顕る。建仁二年1203八月兼澄の嘱を得て寶光院に住し、建保四年1216十一月朔日、明任を拝して具支灌頂を稟け、又華王院覺海に宗義を問ひ、後京都に出て禅林寺静遍並びに金剛王院寶賢に受法し、御室宗
覚法親王に就きて廣沢流の源底を尽くす。かくて高野山に帰り、中院流の極秘を明任に承け、文歴元年1234正智院に住し、大いに法幡を樹立す。仁治四年1243年正月、大傳法院の事に坐して讃岐に配流せらるるや、國守待つに師禮を以てし、慰問慇懃なり。道範即ち南海の名区大師の蹤跡を巡礼して吟詠を事とし、又善通寺に寓して講演を開き、著述に従事し、遠近の道俗その化益を蒙らざるはなし。謫居七年、建長元年1249五月赦に遇ひて山に帰り、
旧居寶光院に住し同年四月疽を患ひ同年五月二十二日寂す。壽七十五.付法に能遍、清圓、隆辨、裕仁、静圓、印頂、賢定、明澄あり。道範は法性・尚柞・真弁とともに覚海門下の四哲と謳れ、殊に覚海より六大不二の奥義を稟承して之を祖述し、その学風は應永の頃(1394年から1428年)長覺によって大成せられ所謂壽門教学となり、六大而二を表とする寶門教学と並称せらるるにいたれり。著は省略。(以上密教大辞典)

6、尚祚。
尚祚は高野山心南院の学匠。高野山八傑の一人。字は覺體、または覺禅。気象俊徹、神手卓異、夙に覺海の室に入り、密教の奥義に到達。正智院道範と互に稟授請益する所あり。後に心南院を剏建して化を啓き、阿弥陀二像を安じ、密誦の外兼ねて浄行を修す。嘗て弥陀三昧を修するに行道衆忽ちに一人を増す。乃ち弥陀像なり。師曰く、二像の中いずれぞや、一像即ち一像を指す。爾来一尊を指佛といひ、一尊を行道佛といふ。寛元三年1245十一月二十五日寂す。・・・(以上密教大辞典)

7、信日
高野山大楽院の學匠にして高野八傑の随一。字は禅智、紀州名草郡神宮の人。父は神官、母は大鳥官吏の女にして興正菩薩の外甥にあたる。幼にして仏門を慕ひ、高野山桜池院慧深(えじん・苦学昼夜を分かたず遂に失明、盲検校という)に随て剃髪受學、年十九、大楽院賢雄に就いて釈論を学び二十一歳慧深に傳法灌頂を受く。次いで西大寺信恵に具足戒を受け、篇聚開遮(戒律の許非)の法を習ふ。二十五歳大楽院に入住し、大日経疏及び釈論を開講し、義解真に徹す。嘉元三年1305亀山上皇は亀山院に於いて釈論を講談せしめんが為に金剛峰寺の学僧を勅召あらせられ、師その撰に当たりしに、疾を以て辞し、高足信堅を代参せしむ。嘗て祖堂に参籠するに大師親しく遺告を披き秘訣を授与せられしといふ。又亀山上皇より仏舎利並びに明恵上人筆記の講式四軸を賜りて大楽院の寺鎮となし、永世不退の四座講式を始修せり。徳治二年1307二月二十四日寂。壽欠く。・・(以上密教大辞典)

8、信堅
高野山大楽院の学匠。高野山八傑の一人。字は圓智、紀州名草郡神宮の人にして信日の同母弟なり。卓軼高恢(たくいつこうかい・卓越していて広く高い)、才識衆に勝れ、信日の高足として學譽一世に高し、嘉元三年1305五月亀山上皇の勅召により亀山離宮に参殿して釋摩訶衍論を講談し大いに叡慮を蒙る。上皇即ち宸筆を以て経筺の表に秘密蔵の三字、裏に六大無碍の偈を書して師に賜ひ、又一朝寒威甚だしかりしかば、御衣の袖を裂いて堅の頭に被らしめらる。これ後日、高野山学侶縹帽子(はなだぼうし)の初めなりとす。又、勅により釋摩訶衍論私記二巻を編して天覧へ奉る。元享二年1322予め死期を知り、最勝院主瓊算に中院流秘決及び持明院方の密印口説を授与し同年十二月十六日西大楽院に寂す。壽六十四.著作に釋摩訶衍論私記二巻、大疏鈔三十八巻、高野山勧発信心集・・・(以上密教大辞典)

野峰名徳集に「信堅、信日の胞弟なり。神色卓軼、識思清高、講勗(きょく・はげむ)の名遠近に施す。徳治の初め勅を亀山離宮に奉じ、釋摩訶衍論を談ず。此の論は我が大師三學録に載せ、奏定し、密蔵の所學と為す。堅師、これを規ただす。顕教の矛楯を摧き密訓の権衡に准じ秘底を抗標す。詞辨婉暢、冠纓(かんえい)聴を聳つ。高趣大に宸哀を愜(こころよう)す。唱嘆止まず、即ち御衣の袖を折り、頭に被せ貺ひ、優寵を表す。所謂縹帽子(はなだぼうし)也。又師の文夾を取りて宸翰を染め秘密蔵を表題し、中に六大無碍の一偈を書す。
重ねて勅あり、彼の講演の義科上を記録し名けて釋摩訶衍論私記と曰ふ、勒して二巻と為し世に行はる。製述多し、皆要枢と為す。師亦八傑の一也。」

9、眞辨
眞辨、高野山八傑の一人。字は琳光、紀州海草郡名手村の人。出家して高野山に登り、寛喜三年1231十月忍信検校に随て傳法灌頂を受け、十輪院に住して講席を張り、學誉高し。正元元年1259高野山検校に補して治山三箇年、文應元年1260二月榮春、賢實等に密灌頂を授け弘長二年1262再び検校となる。著作甚だ多しと雖も逸して伝わらず。(以上密教大辞典)
10、覺和
「高野山三蔵院の學匠。高野山八傑の一。字は日圓、桜池院恵深の室に入り業を受く。性俊逸にして密蔵に精し。正和元年正月に高野山執行代に任じ、同二年八月後宇多法皇御臨幸の際、師は三蔵院にありて大師御影に誦経、その音韻清亮にして法皇の優賞を蒙る。後、成就院に移り、堂塔を興し、弁財天の影像を手模して寺鎮と為す。壽および寂年を欠く。・・」(以上密教大辞典)

11、玄海
高野山寶性院の碩匠。字は真乗、或いは信照。俗姓高志氏。和泉大島郡の人。行基菩薩の遠甥にあたる。年十三にして高野山に登り、十七歳釈迦文院幸明に随て出家し、両部灌頂を稟け、慧學義辨に名あり。寶性院宥性その器を愛して院席を譲る、時に十九歳。次いで瓊算に就きて傳法灌頂を受け、信堅・仁然・頼審等の門を叩きて宗學を研き、中院流の奥旨を汲み、又、圓祐・憲淳・亮禅の諸徳に就きて野流の秘蹟を探る。これに加へて、三論を凝然に、宗乗を信日に學び、顕密二教の淵奥究めざるなし。遂に學頭職に上り、後醍醐天皇の寵寓を蒙り、優諚(天皇のお言葉)を拝して屡々宮中に伺候し清涼殿に於いて真言秘訣を授け奉る。かくて大僧都に任じ、延元元年1336重ねて法印に叙せらる。師平素行徳に勝れ、嘗て寶性院に於いて不動法を修して阿遮羅三昧(不動三昧)に入り、又不動十万枚を行ずるに、三童子壇上に影現する等の霊威はなはだ多し。貞和三年三月十七日寂。壽八十一.付法に快成あり。・・(以上密教大辞典)

12、宥快。
宥快上人は興国6年/貞和元年(1345年)御生誕、応永23年7月17日(1416年8月10日)高野山善集院で御入滅。南北朝時代から室町時代中期にかけての真言宗の学僧。高野山教学の大成者。遠祖は藤原冬嗣、左少将実光の息。19歳で高野山に上り宝性院信弘について密教を学び、1374年(応安7年・文中3年)師の跡を継いで宝性院の院主。さらに1375永和元年に『宝鏡鈔』を著し立川流を批判。山城国山科安祥寺の興雅に師事して安祥寺流を受け、高野山における,教相・事相を大成した。宥快の学派は宝門(而二門)と呼ばれ、無量寿院長覚の寿門(不二門)と高野山の密教学を二分。教相・事相に及ぼした影響は大といわれる。(以上密教辞典等より)


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