「増上寺 今月の言葉 大室了皓」より
「生きるという事は四苦八苦との戦いである。之に負けたら死だ。そうしてこの苦のどんぞこに喘ぐひとびとが実は仏の正客なのだ。この人たちのためにこそ仏はいますのである。
仏は諭したまう。「奈落のそこに落ちたとて早まってはならない。ジーッと目をこらしてごらん。一筋のくもの糸がおりてきているではないか。これに縋りなさい。かならずはいあがることができる」と。
このくもの糸とは他でもない「念仏」なのである。心をこめて念仏すればやがて光が射し途が開けてくる。
(私はこの念仏は「南無阿弥陀」でも「南無大師遍照金剛」でも般若心経でも「おんあぼきゃべいろしゃのおまかまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」でもいいとおもいます。)
「どうしてそんなことが」などという理屈はどうでもよい。弥陀本願の不思議というものだ。ただひたすらに信じ、ひたすら念仏すればよい。
生きるか死ぬかの生死の一大事を前にして、生と死を分かつものであるがゆえに、いい加減な念仏であってはならない。
・・私に残された途はもはや念仏しかない。そしていま私の唱える念仏はこの苦しみから抜け出て
わが子、わが妻、わが夫、さらに親しき人々をも不幸から助け上げ幸せにするためのものだ、
と心に深く決めて唱える。多くの人たちがこの念仏によって活路を開いてきた。・・・」
(念仏ですらこれだけの威力があります。ましてや真言は仏の呪であるからその威力たるやおして知るべしです。)
「生きるという事は四苦八苦との戦いである。之に負けたら死だ。そうしてこの苦のどんぞこに喘ぐひとびとが実は仏の正客なのだ。この人たちのためにこそ仏はいますのである。
仏は諭したまう。「奈落のそこに落ちたとて早まってはならない。ジーッと目をこらしてごらん。一筋のくもの糸がおりてきているではないか。これに縋りなさい。かならずはいあがることができる」と。
このくもの糸とは他でもない「念仏」なのである。心をこめて念仏すればやがて光が射し途が開けてくる。
(私はこの念仏は「南無阿弥陀」でも「南無大師遍照金剛」でも般若心経でも「おんあぼきゃべいろしゃのおまかまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん」でもいいとおもいます。)
「どうしてそんなことが」などという理屈はどうでもよい。弥陀本願の不思議というものだ。ただひたすらに信じ、ひたすら念仏すればよい。
生きるか死ぬかの生死の一大事を前にして、生と死を分かつものであるがゆえに、いい加減な念仏であってはならない。
・・私に残された途はもはや念仏しかない。そしていま私の唱える念仏はこの苦しみから抜け出て
わが子、わが妻、わが夫、さらに親しき人々をも不幸から助け上げ幸せにするためのものだ、
と心に深く決めて唱える。多くの人たちがこの念仏によって活路を開いてきた。・・・」
(念仏ですらこれだけの威力があります。ましてや真言は仏の呪であるからその威力たるやおして知るべしです。)