福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Sさんからのおたよりです。

2013-09-13 | 講員の活動等ご紹介
「それは滝行?それとも水浴び?」

高尾山で2回目の滝行のご指導を受けました。当日はたまたま50歳の誕生日。これまで20歳、30歳、40歳という節目の誕生日にどこで何をしていたのかさっぱり覚えていない私ですが、今回は思い出に残ることでしょう。一時の猛暑も去り、9月の高尾山では秋の気配も感じました。

今回もおよそ20人の方が参加、やはり半数が女性です。前回は陽気な若い男性に話しかけられたりもしたのですが、今回の控室では一同押し黙ったまま、中には結跏趺坐で瞑想を始める若い女性もいたりして、なんとなく緊張感がありました。当然のことですが、心がまえ、お堂へのお参り、掃除、作法の説明などは前回とほぼ同じで、初めてではない私は余裕を感じていました。そして滝に入ります。ここでも目の前に立ってくださるご指導の般若心経などを聴くことができていて、「あ、心経も後半だなあ、もっと気合を入れてご本尊の名前をお唱えしよう」などと思っていました。脱水機に行衣を忘れそうになった前回とは違い、終了後も他の方と軽く雑談です。

単純に「2回目の余裕があった」ということなのですが、そこでハタと考えました。「余裕」とは果たして何か?余裕を持つために回数を重ねるのか?これを突き詰めると、「何のために滝行をするのか」「滝の水を浴びるとどうなるのか」「自分にとって佛道修行(の真似事)をすることにはどのような意味があるのか」という根本的な問題にもつながります。終了後は確かに気持ちがいい。カタルシス、という言葉は日本語で「精神の浄化作用」ということになるらしいのですが、まさにそれを味わっている。しかしカタルシスのためであればそれは佛道でなくてもいいのではないか。スポーツ・登山・観劇・読書・・・。「趣味」の多くは「一定の緊張とそこからの解放感」というカタルシスを味わうためにある、とも言える。自分にとって佛道とは趣味、あるいは健康法に過ぎないのか。それとも、それ以上の何かなのか。ご指導くださる僧侶の方もおっしゃっています。「ご本尊に向かうための身体・口・こころが整わなければ、それは単なる水浴びです」。「余裕ができた」「スッキリした」と喜んでいる私の「行」は単なる水浴びになっているのではないか?

その一方で、このようにも考えます。こころの中に仏さまを信じる気持ちを持ち、少しでも近づこうという意志で形(作法・儀式)やこころを整えるのであれば、それはれっきとした「滝行」になるはずだ、そして「信じて」いるのであれば「行」を続けることは尊いことだ、と。そもそも誰に強制されているものでもありません。滝行に限らず、毎日の読経と瞑想、月例の護国寺参拝、高野山参詣、阿字観実習、四国霊場などの巡礼、、、どれも嫌になったら止めればいい。しかし、現実的には佛道抜きの生活はまったく想像できません。冷静に分析してみれば、佛道は私にとって「安らぎ・愉しみ・こころの支え・知的目標・倫理規範」であり、これらはひとつの大きな塊になってそこにいらっしゃるのです。

このような根本的な問題には容易に答は出てきません。このテーゼを持ちながら、また次の滝行に行くのだろう、といまは思っています。こうした考えは以前から漠然と持っていましたが、今回は滝行の翌日にたまたま見つけた「滝ニ居リマス」というブログの「水浴びになるのが恐くて滝行ができるか」という記事にも触発されました。

記事のリンクは以下になります
http://blogs.yahoo.co.jp/hiyayakko_takiba/6051114.html

最後に「絵日記」です。滝行の帰路にたまたま新宿の献血ルームの前を通りがかり、およそ30年ぶりの献血をしようと思いたちました。「利他行」の具体的な実践でもあり、カードなどの記録が残れば滝行と併せて誕生日の記念になる、との思いもありました。しかし問診で糖尿病薬の服用を申告したところ、「残念ですが、献血はできません」と告げられました。がっかりしました。
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