今、世界の宗教は 9
インド、信仰は祭りで再生産
荒木 重雄
日本の空に秋祭りの太鼓が響くころ、インドも祭りの季節を迎える。40度を超える灼熱の日が続く酷暑期、しばしば洪水に脅かされる雨期を過ぎて、ほっと一息つける季節である。インドで80%余りを占めるヒンドゥー教徒には、「日々これ聖日」といわれるほど日常生活に祭りが満ちているのだが、この爽やかな季節の祭りはまた格別である。
◇◇秋の三大祭り
ヒンドゥーの祭りは太陰暦で行われるので年毎に多少ずれるが、10月から11月にかけて全国規模で催される大きな祭りが三つある。
まず一つはダシャハラー祭。古代叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄ラーマ王子が魔王ラーヴァナを斃した故事を祝うもので、村や町の広場に大きな張子の魔王像が立てられ、ラーマに扮した少年がこれに火矢を放つ。火矢が当たると中に仕掛けられた花火が弾けて、像は燃え落ち、観衆が大喝采。このフィナーレに先立つ20日余りは毎晩、地元の若者たちが『ラーマーヤナ』の各場面を演じる野外劇が催されて、地域中が熱中する。
同じ頃、東インドではドゥルガー・プージャーが催される。ドゥルガー女神が水牛の姿をした魔神マヒシャースラを斃したことに感謝する祭りで、各町内が競い合って辻々に華麗なドゥルガー女神像を土で造って飾りたて、きらびやかに着飾った婦人たちが賑やかにこれを祀る。10日に亙る祭りの最終日、バラモンによる供養が行われた後、女神像は男たちに担がれて町内を練り歩き、川に流される。
シーズンの終尾を飾るのは「光の列」を意味するディーパーワーリー祭である。ヒンドゥー暦第8月の新月の夜、家々の門口や庭に並べた幾十の小さな燭台に火を点して、富と幸福の女神ラクシュミーを招じ入れるのである。この日、農家では牛や山羊の角を彩色で飾って日ごろの労をねぎらい、商家では帳簿を改めて新たな会計年度を迎える。人々が贈り物を交換しあうこの祭りは商戦最盛期ともなり、都会では街中が派手なランタンや刺激的な電飾に彩られ、爆竹の閃光と轟音で沸き立つ興奮の一夜ともなる。
◇◇ヒンドゥー八百万の神々
ヒンドゥー教は、インドの長い歴史の坩堝のなかで多様な文化背景をもつ信仰が混淆・融合した民族宗教で、仏教の母胎ともいえ、多くの観念や習俗を共有しながら、その混沌とした複雑さから日本人には馴染みの薄い宗教となっている。今回は信仰対象についてのみ簡単に触れておこう。
ヒンドゥーには八百万の神々がいるが、大きくはヴィシュヌ神、シヴァ神、女神たちの三つの系統に分けられよう。周知のように、インドは、紀元前1500年頃に侵入したアーリア人が先住民を支配してつくった社会に基礎を置くが、ヴィシュヌはその征服者の意思の名残をとどめる神である。
この神はさまざまな化身となって悪がはびこったり危機に瀕した世界を救うとされ、前述のラーマや叙事詩『マハーバーラタ』のクリシュナのように王族・戦士としても現れて、戦いのさなかで正義や秩序を主張する。
ちなみに、仏陀は、ヴィシュヌの10大化身(権化)の9番目の化身だが、他に比べて精彩を欠く。
これに対してシヴァ神は、先住民の想念を表わす神で、死や性という人間の根源的な怖れや希求に根差している。もう一つの勢力が女神たちで、先述のラクシュミーはヴィシュヌの神妃、ドゥルガーはシヴァの神妃の一人というように、配偶神としてシヴァやヴィシュヌに代わって大きな働きをするのである。
◇◇宗教は心の問題のみに非ず
ところでヒンドゥー教の大きな特徴は、それがヒンドゥー教徒にとっては生きる形の基本となることである。社会全体の行為規範や考え方、習俗の根底にヒンドゥーという宗教があり、それを基準として個人の生活も社会も動いている。これはヒンドゥーに限らずイスラムでも、多くの地域で仏教やキリスト教でも同じである。私たちはえてして宗教をたんに心の問題としてのみ捉えがちであるが、生活様式・社会システムとしての宗教のありようが、世界各地にみられる宗教の強さである。
もう一言加えれば、ヒンドゥーなど諸宗教は、祭りなど多彩なイベントに繰り返し大衆を動員することで、帰依とアイデンティティーを維持、再生産している。私たちの仏教にも、そのように人々に働きかけ惹きつける企画力と演出力が求められるのではないか。
インド、信仰は祭りで再生産
荒木 重雄
日本の空に秋祭りの太鼓が響くころ、インドも祭りの季節を迎える。40度を超える灼熱の日が続く酷暑期、しばしば洪水に脅かされる雨期を過ぎて、ほっと一息つける季節である。インドで80%余りを占めるヒンドゥー教徒には、「日々これ聖日」といわれるほど日常生活に祭りが満ちているのだが、この爽やかな季節の祭りはまた格別である。
◇◇秋の三大祭り
ヒンドゥーの祭りは太陰暦で行われるので年毎に多少ずれるが、10月から11月にかけて全国規模で催される大きな祭りが三つある。
まず一つはダシャハラー祭。古代叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄ラーマ王子が魔王ラーヴァナを斃した故事を祝うもので、村や町の広場に大きな張子の魔王像が立てられ、ラーマに扮した少年がこれに火矢を放つ。火矢が当たると中に仕掛けられた花火が弾けて、像は燃え落ち、観衆が大喝采。このフィナーレに先立つ20日余りは毎晩、地元の若者たちが『ラーマーヤナ』の各場面を演じる野外劇が催されて、地域中が熱中する。
同じ頃、東インドではドゥルガー・プージャーが催される。ドゥルガー女神が水牛の姿をした魔神マヒシャースラを斃したことに感謝する祭りで、各町内が競い合って辻々に華麗なドゥルガー女神像を土で造って飾りたて、きらびやかに着飾った婦人たちが賑やかにこれを祀る。10日に亙る祭りの最終日、バラモンによる供養が行われた後、女神像は男たちに担がれて町内を練り歩き、川に流される。
シーズンの終尾を飾るのは「光の列」を意味するディーパーワーリー祭である。ヒンドゥー暦第8月の新月の夜、家々の門口や庭に並べた幾十の小さな燭台に火を点して、富と幸福の女神ラクシュミーを招じ入れるのである。この日、農家では牛や山羊の角を彩色で飾って日ごろの労をねぎらい、商家では帳簿を改めて新たな会計年度を迎える。人々が贈り物を交換しあうこの祭りは商戦最盛期ともなり、都会では街中が派手なランタンや刺激的な電飾に彩られ、爆竹の閃光と轟音で沸き立つ興奮の一夜ともなる。
◇◇ヒンドゥー八百万の神々
ヒンドゥー教は、インドの長い歴史の坩堝のなかで多様な文化背景をもつ信仰が混淆・融合した民族宗教で、仏教の母胎ともいえ、多くの観念や習俗を共有しながら、その混沌とした複雑さから日本人には馴染みの薄い宗教となっている。今回は信仰対象についてのみ簡単に触れておこう。
ヒンドゥーには八百万の神々がいるが、大きくはヴィシュヌ神、シヴァ神、女神たちの三つの系統に分けられよう。周知のように、インドは、紀元前1500年頃に侵入したアーリア人が先住民を支配してつくった社会に基礎を置くが、ヴィシュヌはその征服者の意思の名残をとどめる神である。
この神はさまざまな化身となって悪がはびこったり危機に瀕した世界を救うとされ、前述のラーマや叙事詩『マハーバーラタ』のクリシュナのように王族・戦士としても現れて、戦いのさなかで正義や秩序を主張する。
ちなみに、仏陀は、ヴィシュヌの10大化身(権化)の9番目の化身だが、他に比べて精彩を欠く。
これに対してシヴァ神は、先住民の想念を表わす神で、死や性という人間の根源的な怖れや希求に根差している。もう一つの勢力が女神たちで、先述のラクシュミーはヴィシュヌの神妃、ドゥルガーはシヴァの神妃の一人というように、配偶神としてシヴァやヴィシュヌに代わって大きな働きをするのである。
◇◇宗教は心の問題のみに非ず
ところでヒンドゥー教の大きな特徴は、それがヒンドゥー教徒にとっては生きる形の基本となることである。社会全体の行為規範や考え方、習俗の根底にヒンドゥーという宗教があり、それを基準として個人の生活も社会も動いている。これはヒンドゥーに限らずイスラムでも、多くの地域で仏教やキリスト教でも同じである。私たちはえてして宗教をたんに心の問題としてのみ捉えがちであるが、生活様式・社会システムとしての宗教のありようが、世界各地にみられる宗教の強さである。
もう一言加えれば、ヒンドゥーなど諸宗教は、祭りなど多彩なイベントに繰り返し大衆を動員することで、帰依とアイデンティティーを維持、再生産している。私たちの仏教にも、そのように人々に働きかけ惹きつける企画力と演出力が求められるのではないか。