福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は山岡鉄舟が西郷隆盛と会見した日

2024-03-09 | 法話

慶応4年(1868年)3月9日、山岡鉄舟は討幕軍の進駐していた駿府に行き上伝馬町の松崎屋源兵衛宅で滞在していた西郷隆盛と会見をします。
ここで江戸城無血開城の道筋をつけました。このとき山岡は群がる官軍のなかを「朝敵徳川慶喜家来 山岡鉄舟まかり通る」といって一人悠然と入っていったという話は有名です。わたしも大昔二回ほど大勢の人間にかこまれたことがありますがとてもこうはいきませんでした。いかに肝がすわっていたかわかります。
山岡鉄舟は天保7年(1836年)6月10日、江戸本所で小野朝右衛門高福の第五子として生まれました。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。剣・禅・書に通じ、明治天皇侍講等人口に膾炙しているところです。明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立しています。私も若いときはここで座禅のまねごとをよくさせていただきました。全生庵のホームページには不思議な因縁が書かれています。「全生庵の寺名は 明治七年居士が鎌倉建長寺開山蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰い これを書斎に掛けて愛蔵していた 。明治十三年 居士が一寺建立を発願し 寺域を道友国泰寺越叟和尚のすすめにより谷中の現在地に選定した ところが計らずも 此の土地が七百年前 道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て 全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であるということが分かった 居士も奇縁に感じ 明治十六年 全生庵を寺号とし 居士邸から曾て江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした 」
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま示寂。52歳。死因は胃癌。弟子に殉死者が多く出たといいます。

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