福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大智度論より5

2019-11-09 | 諸経

(大智度論釋初品中戒相義第二十二之一)
(戒の内容・殺生罪)・・1
問曰。已に如是の種種功徳果報を知る。云何が名て
戒相(戒の内容)となすや。
答曰。惡を止て更に作さず、是を名けて戒となす。若しくは心に生じ、若しくは口に言ひ、若しくは他より受けて身口の惡をやめる、是を戒相となす。云何が名て爲惡とす。若し實に是の衆生を是れ衆生なりと知りて欲さんとするの心を発し其命を奪ふて身業有作の色を生ず。是を名て殺生罪となす。其餘の繋閉鞭打等は是れ殺を助くるの法なり。
復次に他を殺せば殺罪を得る。自ら身を殺すに非ず。心に衆生と知りて而も殺すは是れ殺罪なり。夜中に人を見て謂って杌樹となして(杌樹と思って)而も殺す者の如くならず。ことさらに生を殺せれば殺罪を得る。故意あらざるにあらざれば也。快心にして殺生すれば殺罪を得る。狂癡に非ずして命根を斷ぜば是殺罪なり。作瘡にあらず。身業は是殺罪なり。但だ口に教勅し口に教ゆるのみにあらざるは是れ殺罪なり。但だ心に生ずるに非ず。是の如き等を殺罪と名づけ、是の罪を作さざるを、名づけて戒と為す。若し人、受戒して心に生じ口に「我今日より復た殺生せず」と言ひ、若しは身を動かさず口に言はず、而も獨り心に生じて「我從今日より復た殺生せず」と自誓せば、是を名けて
不殺生戒という。
有人言ふ、「是の不殺生戒は或は善、或は無記なり」と。
問曰「阿毘曇(アビダルマ・仏教の教説)の中に説くがごとくんば一切の戒律は皆な善なり。今何を
以ってか無記(善とも悪ともいえない)というや」。答曰「迦栴延子の阿毘曇(迦栴延子著「阿毘曇八健度論」説一切有部の根本典籍)の中に言がごときは『一
切善』なり。餘の阿毘曇中の言は、『不殺戒は或は善、或は無記なり』と。何以故。若し不殺戒が常に善ならば此戒を持てる人は應に得道人の如く常に惡道に堕せざるべければなり。是をもっての故に或時は應に無記なるべし。無記・無果報の故に天上・人中に生ぜざるなり。
問曰「戒の無記なるをもっての故に地獄に堕すにあらず。更に惡心の生ずるが故に地獄に堕すなり。」
答曰「不殺生は無量の善法を得る。作・無作(表・無表)の福を常に日夜に生ずるが故に、若しは少罪を作さば、限あり量あるなり。何を以っての故に、有量に隨いて、無量に隨わざればなり。是故に知る、不殺戒中にも或は無記有ると。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「十善法語」その69 | トップ | 今日は一粒万倍日です。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事