福聚講

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中論第六章

2013-11-06 | 諸経
実感に囚われると、現実と感情が結合して、
実感に囚われないと、現実と感情に分離する。
実感に捕らわれて、心が昂ぶっている場合には、
感情は実感に存在し、現実として実感が存在する。

さらに、実感の主体が、存在することなく、
どうして、実感の客体が、存在するだろうか。
具体的なものだろうと、抽象的なものだろうと、
あらゆる実感とは、現在の瞬間の過程に過ぎない。

実感するものは、感情として存在していて、
実感されるものは、現実として存在している。
実感の主体と客体が、互いに関係が無いように、
実感が現われていても、感情と現実は関係が無い。

もしも、現実と感情が、同一のものならば、
実感として結合する事は、決して在り得ない。
なぜなら、結合は二つのものを前提にするから。
一方で、現実と感情は、結合しないものではない。

結果を捉えて、二つの一致と捉えるにせよ、
原因から捕えて、一つの分離と捕えるにせよ、
結合という概念は、
二つのものの中に在るとも、一つのものの中に在るとも、
決して言い切れない。

たとえば、現実と実感が別であるからこそ、
両者の結合が成立すると、考えるのであれば、
どうして、両者が別であると、言えるだろうか。
というのも、すでに両者は結合しているのだから。

あるいは、現実と感情が別であるからこそ、
両者は別々に成立すると、考えるのであれば、
はたして、両者を同じものと、考えるだろうか。
というのも、すでに両者は分離しているのだから。

あなたは、別々に存在しないと考えながら、
現実と感情が、結合していると考えるだろう。
ところが、一方で、両者を結合させるためには、
現実と感情が、分離していると考えねばならない。

すなわち、別々に存在することはないから、
現実と実感が、結合して存在することはない。
なぜなら、もし、別々に存在しているのならば、
両者が結合した実感は、いずれに生じているのか。

現実と感情は、結合し存在することはなく、
結合をしないで、別々に存在することもない。
このように、現実と感情、即ち、実感の問題は、
共存するとか共存しないとかいうその対立自体を超越している。


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