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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その29

2014-03-07 | 法話

第二九課 慈悲


 ひとくちに慈悲ぶかい人といえば、誰にでもものをやる人、誰のいうことをも直ぐ聞き入れてやる人、何事も他人のために辞せない人、こう極めてしまうのが普通でしょう。それはそうに違いないでしょう、それが慈悲ぶかい人の他人に対する原則ですから。
 しかし、原則というものは結局原則であります。ものごとがすべて、原則どおり単純に行って済むのなら世の中は案外やさしいものです。お医者でも原則どおりですべて病人が都合よく処理出来るなら、どのお医者でもみな病理学研究室に閉じこもっていれば世話はありません。なにも、面倒な臨床学など習って実地研究の何年間など費す必要はないわけです。ところが、その必要がある。ありますとも、そこが臨機応変、仏教のいわゆる、「時、処、位」に適する方法において原則を実地に応用しなければなりません。
 本当の慈悲とは、ここに本当にものを与えるに適当な事情を持つ人がある。その時、その人に適当な程のものを与える。それが本当の慈悲であります。ここに一人の怠け者があって、それが口を上手にして縋って来たとする。その口上手に乗ぜられ、ものをやったとする。それは慈悲に似て非なるものであります。おだてに乗った、うかつものの愚かな所行です。そんな時、ものをやる代りに、そのなまけ者のお上手者の頬に平手の一つも見舞ってやる。誡めになり発憤剤になるかもしれません。その方が本当の慈悲です。
 人のいうことを聴けば宜いといって人を甘やかすばかりが慈悲ではありません。お砂糖ばかりで煮たお料理は却ってまずい。一つまみの塩を入れてたちまち味の調和がとれるではありませんか。時には、いつくしみのなかに味一つまみの小言もいれなくては完全の慈悲とはならないでしょう。
 愛情ばかりで智慧の判断の伴わない慈悲は往々にしてまた利己主義の慈悲になります。折角、自分は善良な慈悲心でしているつもりのことが、利己主義の慈悲心になっては残念です。
 トルストイの作品のうちにあった例だと思います、何の職業をしている人だったか忘れましたが、とにかく慈悲を心がけて暮しているある男がありました。ある冬の夜、非常に天候が荒れ(あるいは雪の夜だったかもしれません)ました。慈悲深い男は、家外の寒さを思いやりながら室内のストーヴの火に暖を採り、椅子にふかぶかと身を埋めて静かに読書しておりました。と、家外の吹雪の中に一人のヴァイオリン弾きの老爺の乞食が立ち、やがてそれは寒さのために縮んで主人の室の硝子扉に貼りつくように体を寄せました。主人はもとより慈悲の心で生きている人です。しばらくヴァイオリン弾きの乞食姿をあわれと思って見ておりましたが、やがて意を決して硝子扉を開けました。主人はそして、ひたすら恐縮するヴァイオリン弾きを室内へ招じ、暖かい喰べものを与え、ストーヴの火をどんどん焚き足して長時間吹雪のなかにさすらってこごえて来た乞食の老爺の体をあたためてやりました。
 翌日、その翌日となり雪は晴れ道もよくなりました。ヴァイオリン弾きの老爺はしきりに主人の邸内から辞してまたさすらいの旅に出ようとしました。しかし、主人はきき入れませんでした。どこまでも、自分の邸内にとどめて可哀相な乞食音楽師を安楽に暮させようと心掛けました。それにもかかわらず老爺のヴァイオリン弾きはしきりに辞去したがる。するとなおさら主人は引きとめる。ほとんど強制的にひきとめる。
 ある夜、主人はヴァイオリン弾きの老爺が、突然無断で邸内から抜け出し、どことも知らず、逃げ失せたのを知りました。「ああ、彼は、やはり空飛ぶ鳥であったか」。こう気がついたのは、主人であったか、読者たる私であったか忘れましたが、とにかく利己主義な慈悲の例証にこの話は役立つものです。すなわち、主人は、ヴァイオリン弾きの本質を達観し得なかった。彼の放浪的な運命をつくった性格を見透さなかった。彼の生き方は、どんな憂き艱難をしても、野に山に、街ににさすらって歩くのがその性質に合う生き方なのでした。そういうものには、そうさせて置くのが好いのです。彼の幸福は、決して暖衣飽食して富家に飼われ養われている生活のなかには感じられなかったのです。彼は主人に引き留められているうちどんなに窮屈であり、旅が、さすらいが恋しかったか知れないのです。彼は主人の好意がむしろ迷惑だったでしょう。主人の慈悲は彼にとってむしろなくもがなの邪魔だったでしょう。
 それにもかかわらず、主人は自分が慈悲を行っていることに満足を感じていたでしょう。自分の「志」を立てることばかり考えていた主人は、それがために相手が、どんな不自由や迷惑を感じているかに気がつかなかったのです。つまり自己満足、利己主義の慈悲とはこういうことなのです。
 有難迷惑の好意についても一ついえば、某外国に一百六十歳近い長寿者がありました。皇室ではそれを嘉よみせられ、召し上げられて飽衣美食でもてなしました。長寿者はたちまち死にました。粗食故に長寿していた生命が、美食に遇ってたちまち破損してしまったのだそうです。
 要するに本当の慈悲とは、相手の立場や本質を考え、自分の慈善的感情本位でない施行ほどこしにおいて本然の達成が遂げられるのです。
(まあしかしこういう上辺だけの慈悲行すらできない人がほとんどですから、あまりこのように厳しく偽善とせめるよりは、偽善でもいいからまず実行することと思います。偽善でも行うことは難しいのです。勇気がいります。東日本大震災で俳優の杉良太郎が借金して何億円かかけて支援に出かけたようですがそれに対して売名行為だという人がいるといわれて「売名でもいいからまず自分でやってみてください」といっていました。善は急げです、災害時に偽善かどうかを考えている閑はありません、「まず行動だ」と思いました。自分も微々たる慈悲行をしていますが全く自分で満足できるものではありません。難しいものです。しかしどうしてもやらざるを得ないのが慈悲行でもあります。)
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