福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その28

2014-03-06 | 法話

第二八課 自分と他人

一、自分には自分の特長があり、他人には他人の特長がある。自分の特長は他人とくらべてどういうところにあるか、それを自覚し見定めることの確実さ、不確実さによってその人の一生には無駄がなく、随って有意義に一生を使い得ると思います。
 しかし、何が自分の天稟に備わっているのか、何が他人にくらべて自分の特長であるか、それは、なかなかたやすく自覚し得るものではありません。ともすれば、他人のした事他人の獲得した良果を見て、盲目的に自分もまた、それと同じような良果を獲得しようと欲求します。そして、思慮分別もなくあせります。
 一面からいえば「勉強が天才を作る」という諺さえありますから、勉強さえすれば他人のした事はなんでも自分に出来ないわけはないはずです。しかし、それは一般の人々の人生の方向を極める時の役には立たないと思います。勉強して天才と同じ効果を獲得したというのは、その人の隠れたところに勉強したためにその修業の成功を致させる性質が潜んでいたのかもしれません。そういうことは往々にして有りがちなのですから、しかし、そういう幸福に当らなかった人はどうでしょうか。眼のたちの悪い人が刺繍で成功しようとしたり、足の短い人がマラソンの選手を志したりする無謀は避けなくてはならないでしょう。
 幼年時代から好きな道があり、それに添って歩んで行くことがその人の成功であったりというような人は別として、多くの人はある時期において「さて自分は何者になったらよいか、何業が自分の性質に適するであろうか」を冥想しなければならぬ時期に行き当るでしょう。そういう時、人々はどうしたら宜かろうか、ある人は目上の人に相談に行き、ある人は学校の師の許へ出掛け、友達や両親、兄弟などとも懇ろに謀るでしょう。それらも宜いかも知れません。しかし、結局の掛るところは自分自身の覚悟するところ、決断するところにあるでしょう。いくら他より観察して貰うにしても「この畑地には比較的野菜を蒔いた方が適するだろう」くらいのところまでしか助言を得られないでしょう。進んで野菜のなかの何種類が適するかというところまでいい当てては貰えないでしょう。またそれより進んで自分以外のものの選定に自分の天分の見わけ方や、自分の天性が欲する生涯の選択を任すのは、自分に本当に忠実なものとはいえません。結局が自分です、自分に真に依拠すべきです。
 さて、私は今、人々を自分にしっかり依拠するように勧め勧めてここまで筆を運んで来ました。ところで人々は「では自己とは何ぞや」と改めて私に聴かれはしますまいか。されば「自己とは何ぞや」。自己とは、まずこの我が肉体によって差し当り象徴され、かりに形づくられています。しかしながら、今一だんと自問自答を突きつめて「では本当の自己とはどこか体の一部分にでも潜んでいるのか」「手に聴いてみよ、足に聴いてみよ、鼻に、口に、耳に、背に、膝に」「どこにも答えなし」「では残った頭と胸と腹に聴け」「腹は落ち付き、胸は騒ぎ、頭は重きのみ」。
 ついに見出し得ない自己の代りにそこへ大きな虚無がくちを開けた。しかし、力を落してはいけない。暫時その寂漠に堪える人には忽然と湧く一念があって、その虚無のくちをふさいでくれるでしょう。この一念は自己の片割れである。この一念をまず捉えよ。そしてそれに合する外界の念を呼ぶべし――つまり南無と唱えて仏への祈願をこめるのである。この時唱える「南無」(「南無阿弥陀仏」を現代語にいい換えれば「光明と叡知よ、今、我に来れ」)は、この時に適した行進曲ともいい換えられます。ここの仏をいい換えれば、本当にこの自分を形作り、この世に出した宇宙の根本生命の当体だというのであります。
 自分の内部に起った懸命に自己を尋ねる一念と、その一念が呼んだ外部の念が祈願に依って合するところに真の自己は生れる。その自己がその刹那において直覚したものこそ、真に自己の声、自己を証明する声、真の自己が自己に呼び掛ける声、教える声――しっかりその声を聴取なさい。雑念の蔭にその声を逃してはなりません。
二、人、ひとたび自己の信念のもとに、自分の職業なり技術なり芸術なり商業なり農業なり、ともかくおのが志すところを極めたら必ず低迷躊躇しないことです。欲望を整頓し心を端然と正して一途に自分の方向に行かなければならないことはもちろんでしょう。私が今さら、ここで筆を執って書くのもおかしいくらいあたりまえな事でしょう。ですが、このあたりまえな事をあたりまえに行やってゆくことがその実いかにむずかしいかを多くの人は知らないのではありませんか。
 かの鎌倉時代の禅宗の高僧、道元禅師という大知識が、すでに至高の修業を積まれた上、三年の間支那へ留学されました。その時代の支那は前代の唐時代よりやや衰えたとはいえ仏教隆盛国として、我国から時々留学を志して渡支致しました。禅師もその一人として如何に稀有な奇抜な卓説を持ち帰られるかと人々は待ち構えていたものです。しかるに、当の禅師にありましては却って淡々として答えられました。曰く「眼横鼻直」。これを直訳しますと、「人間の顔の眼は横につき鼻は竪たてについている」というのです。これを意訳しますと、「世の中の本当のことはあたりまえということだ。自分は修業に修業を重ねて結局そのことを本当に知って来た」と禅師は答えられました。私も曾てこういう事をしみじみありがたく痛感したことがありまして、次に書くような歌を詠んだことがあります。

梅の樹に梅の花さくことはりを
  まことに知るはたはやすからず

 たんたんたる歩みを運んで、自分に与えられたたんたんたる道を行くことは一見非常にたやすいようですがなかなかそうでありません。ちょっと道に花がある、停ち止って眺める。ちょっと岐路がある、そこへ曲り込んだらどこへ行くかと好奇心を起す。それからまたたんたんたる言葉をもって過不及なしの話を語りつづける。これもやさしいようで難しい。人間は、ともすれば誇張したり妄言を吐く性癖を持ち合せています。まったく人間というものは自分ながらつくづく持ち扱いにくいものであると思わざるを得ません。その始末の悪い人間が、心を落ちつけて、対象物を明瞭に視てつまるところ、人間の顔は眼が横につき鼻が竪についている、というような確実な正常な認識を得て一毛だも動ぜぬ人生の鑑識を備えます。これは大した修業の結果です。しかしながら、この大盤石量の達観は持ち得なくとも、常にこの理を心に置いて人生の間違いない生き方をする。そして、もし自分が「眼」のたちの人間でそれに相応した業務をもち、それによって成果を得られるならば、「鼻」のたちの人がそれによって得られる成果を羨望しないところに、この人生の良き現実の世界が在り、自他の区別が整然とついた立派な差別相が保てるのです。
 モルモットを擬人法に書いた童話の作が私に在ります。そのモルモットの若い息子が、自分達種族に他の獣類のような尻尾を持ち合せないのを不平に思って、親の家を無理に出て広い世界の獣類のなかへ、自分に付ける尻尾の毛を探しに出て、ある時大滑稽を演じて他の動物のもの笑いになって恥しめられたり、時にはまた大変な危険に会ったりとうとう元来尾のない性の者が尾を欲する間違いを悔悟して親の家へ帰るという筋ですが、自己の領域以外他人の領域まで冒して自他の境界を乱す者への誡めともなろうかと思われます。

(この世を地獄にしているのはまさに自他の区別の固執によるものであることは多くの経典にお説きになっているところです。良寛さんも「いかなるが苦しきものと人問わば、人をへだつる心と答えよ」と詠んでいます。理趣経等でいわれる「清浄」とは自他の区別の無くなった状態をいうとされます。密教修法の慈悲喜捨の四無量心では第二番目に「悲」の観念として、衆生の苦を救うためにこの自他平等の観念にひたります。もともとみな大日如来なのですから自他の区別はないはずですがそこに引っかかって二進も三進もいかなくなり阿鼻叫喚の地獄をつくり出しているのが我々なのです。自他の区別がなければ当然「苦」もなくなるのですが・・。無くならないまでも自他の区別の心を薄める努力は必要でしょう。・・なにかにつけて自他を比べる気持ちの強い人がいますがそういう人はやはり「業」が深い人というべきです。)
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