福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

福聚講・・今日の言葉

2015-01-24 | 法話
日本で発達した「曼荼羅」や「本地垂迹」思想はあらゆる宗教を救うシステムではないかと思います。つまり曼荼羅の中心にそれぞれ信仰する宗派の教祖様をすえて、他の宗教の教祖は自分の信じる教祖の変化身であるとすればよいのです。

胎蔵曼荼羅は中心に大日如来様がおられ周囲には無数の仏、菩薩、明王、天、二十八宿、十二宮、八部衆、死神、死鬼まではいっています。これらの中には大黒天様・聖天様・弁才天様などヒンズー教の神々も多いのです。しかしすべての曼荼羅の諸尊は中央の大日如来様の変化であるとされます。そして大日如来は宇宙の真理そのものなのです。したがって宇宙の真理ですからどんな神がはいってきてもいいのです。

また本地垂迹説では「本地」が佛であれば「迹」は神となり、本地が神であれば迹は佛となるのです。この本地にそれぞれが信ずる神をおいて他の宗教の神は迹であると考えればすべての地球上の宗教は存在意義を認められることになります。

こういう考えは決して便宜主義ではありません。宇宙の真理にもとずく考えです。つまり地球上の全てのものは宇宙の法則を同じように受けている根っこは同じ存在であるからです。

こういう常識が通用するようにはやくなりたいものです。
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