福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

本覚門と始覚門

2020-01-30 | 諸経
二つの行きかたがある。一つは理想を遠く前方に求めてその光明を望みつつ一歩一歩進んでいこうとするものである。他の一つは理想を前方に求めないで自ら理想体・発光体となりて他の一切を照らし一切を浄化せんとするのである。
・・(最初の前方に理想体を認めて近ついていこうとするやりかたは)心地観経などでは,教と理と行と証との次第を立てこれを悟りへの道の行き方としているのである。さらに天台一家などでは教によりて行を修し、行によりて理を証するという上から、教・行・理・証といい、また他力本願を旨とする浄土真宗などでは仏の教(無量寿経)によりて、口称念仏の行を知り、この口称念仏が大往生のための唯一の正行なることを信ずることによって、正しく往生し、もしくは成仏の果を証することができるとして、そのゆきかたを教・行・信・証としているのである。
いずれにするも仏を心外の世界に求めてその教法に導かれ、これによりて理を解し、もしくは行を修して、次第に証果を得ることになるのである。この理想を前方に投影し、それに照らされされに導かれて一歩一歩進んでゆくゆきかたを外信の法門とも始覚の法門ともいうのである。
・・これに対し、・・自己のそのものが理想体であり、発光体であることを認識し、自らの理想の光明をもって他の一切を浄化し美化せんとするゆきかたを内信の法門とも本覚の法門ともいうのである。・・(これは真言宗の法門であり)自らが仏の作業として他を教化するための修養なり、修行なりを重ねてゆかねばならぬ。そこでこの本覚の法門としてのゆきかたは、果・理・教・行と次第するのである。(このことは鎌倉時代初期に禅林寺の静遍の「秘宗文義要」において、果・理・教・行の内容を秘密経典の上にたずね、その静遍の付法たる道範が「初心頓覚鈔」を著しその趣旨を平易に解明しているのである。)(真言宗読本・栂野祥雲)
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