本当に「自己」は唯一無二の存在か?(真言宗読本、栂尾祥雲)
「弘法大師は大日経の「いかんが菩提とならば、実の如く自心を知る」という語の真意を徹底さす為に、これを心と身との二つに展開し、それは「究竟して自心の源底を覚知し、実の如くに自身の数量を証悟することなり。(十住心論)」とされている。これ自心の源底を覚知することは、同時にその心を宿している自身の数と量とのいかなるものなるかを悟ることによりて、初めて達せられるものなるが故である。我等は普通にこの自身を以て・・全く独立した一個の存在物としているけれども・・‥実際は天地一切がこの自身に集約されている。この天地の森羅万象が自身の内容であり、自身そのものに他ならないのであるから、その自身の数は無数であり、その量は宇宙法界と等同である。この自身が宇宙法界と等同であるとともに、その内面を形成する自心がまた宇宙に満ち、天地を貫いていたらぬ隈もないのである。この宇宙法界そのままの身と心とが一体となって生きているのが本当の我である。さればこそ善無畏三蔵は之を説明し、「我はすなわちこれとは、決定して我はすなわち法界であり、我はすなわち毘盧遮那であり、我はすなわち普門の諸神である(大日経疏)」等といっている。(真言宗読本、栂尾祥雲)」
「弘法大師は大日経の「いかんが菩提とならば、実の如く自心を知る」という語の真意を徹底さす為に、これを心と身との二つに展開し、それは「究竟して自心の源底を覚知し、実の如くに自身の数量を証悟することなり。(十住心論)」とされている。これ自心の源底を覚知することは、同時にその心を宿している自身の数と量とのいかなるものなるかを悟ることによりて、初めて達せられるものなるが故である。我等は普通にこの自身を以て・・全く独立した一個の存在物としているけれども・・‥実際は天地一切がこの自身に集約されている。この天地の森羅万象が自身の内容であり、自身そのものに他ならないのであるから、その自身の数は無数であり、その量は宇宙法界と等同である。この自身が宇宙法界と等同であるとともに、その内面を形成する自心がまた宇宙に満ち、天地を貫いていたらぬ隈もないのである。この宇宙法界そのままの身と心とが一体となって生きているのが本当の我である。さればこそ善無畏三蔵は之を説明し、「我はすなわちこれとは、決定して我はすなわち法界であり、我はすなわち毘盧遮那であり、我はすなわち普門の諸神である(大日経疏)」等といっている。(真言宗読本、栂尾祥雲)」