一 もしも我(アートマン)が五つの構成要素(五蘊)であるならば、我は生と滅とを有するであろう。もしも我が五蘊と異なるならば、我は五蘊の相を持たぬであろう。
二 我(アートマン)が無いときに、どうして、<わがもの>(アートマンに属するもの)があるだろうか。我(アートマン)と<わがもの>(アートマンに属するもの)とが静まる故に、<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れることになる。
三 <わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものは存在しない。<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者は、実は見ないのである。
四 内面的にも外面的にも<これは我のものである>とか<これは我である>とかいう観念の滅びたときに執著はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる。
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
八 「一切はそのように真実である」、また「一切はそのように真実でない」。「一切はそのように真実であり、またそのように真実ではない」。「一切はそのように真実であるのではないし、またそのように真実ではないのではない」―――これがもろもろのブッダの教えである。
九 他のものによって知られるのではなく、寂静で戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない―――これが真理の特質(実相)である。
十 甲に縁って【甲を原因として】乙が成り立つのであるならば、実に乙は甲ではない【甲と乙とは同一ではない】。また乙は甲と異なるのでもない。それ故に【原因は】断絶するのでもなく、また常恒に存在するのでもない。
十一 【もろもろの事物の真の本性は】同一のものでもなく、異なった別のものでもなく、断絶するのでもなく、常恒に存在するのでもない―――。これが世の人々の主であるもろもろのブッダの甘露の教えである。
二 我(アートマン)が無いときに、どうして、<わがもの>(アートマンに属するもの)があるだろうか。我(アートマン)と<わがもの>(アートマンに属するもの)とが静まる故に、<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れることになる。
三 <わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものは存在しない。<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者は、実は見ないのである。
四 内面的にも外面的にも<これは我のものである>とか<これは我である>とかいう観念の滅びたときに執著はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる。
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
八 「一切はそのように真実である」、また「一切はそのように真実でない」。「一切はそのように真実であり、またそのように真実ではない」。「一切はそのように真実であるのではないし、またそのように真実ではないのではない」―――これがもろもろのブッダの教えである。
九 他のものによって知られるのではなく、寂静で戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない―――これが真理の特質(実相)である。
十 甲に縁って【甲を原因として】乙が成り立つのであるならば、実に乙は甲ではない【甲と乙とは同一ではない】。また乙は甲と異なるのでもない。それ故に【原因は】断絶するのでもなく、また常恒に存在するのでもない。
十一 【もろもろの事物の真の本性は】同一のものでもなく、異なった別のものでもなく、断絶するのでもなく、常恒に存在するのでもない―――。これが世の人々の主であるもろもろのブッダの甘露の教えである。