福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんから近況の御報告がありました。

2023-04-08 | 頂いた現実の霊験

 

「お陰を頂きました」

 

桜花爛漫、待ちに待った季節がやってきました。自然界は一寸の狂いもなく、天体の法則に従って運行しています。一方、当方と言えば、世間の桎梏に雁字搦めに絡めとられて二進も三進も歩けない事象があり、孤軍奮闘してきました。人間八十歳を過ぎると、楽が出来ると思いきや、とんでもない位の苦労を背負いこみました。毎日、そのことに触れずにいられる日は、一日としてありませんでした。勿論、長年信仰して来ました神様仏様に、嘆願を続けてはきました。私は、高原耕曻講元様が「マイ神仏」を持つことを、提唱されてから神社と石の地蔵様を「マイ神仏」ときめ願掛けの神仏として、お参りを続けてきました。神社は、十二神社という村の鎮守。私の住まいの近くにある古い建物で、宮司はいない無住のお宮です。一方、お地蔵様は、背丈40センチほどで、お顔が傾いて居ます。表情が寂しげであり、黙想して居られるようでもあり、永年にわたり苦節をこらえられてきたお顔のようにも見えます。古い石で彫られたお地蔵様です。誰か、私以外にお守りしているようで、赤い前掛けをつけて頂き、1円玉のお賽銭も戴いておられます。この神仏に、ずっとずっと「お蔭」を頂くべく祈願してきたのです。しかし、私の願望は 叶えられませんでした。しかし、それでも、祈願し続けました。そこで実感したことは、自分の都合のいいことをお願いしていて、無事な日常をどう感謝しているのか。こうしてお参りが出来る体の、健康状態、かみさんも娘も元気であることを感謝しているのか。日頃あまり感じない「お蔭」を、実は戴いているのだ。こういう小さな「お蔭」が積み重なって大きな「お蔭」をいただくのではないか。私たちは、この、「小さなお蔭」を頂いているのに、感謝の気持ちを忘れているのではないか。だから、大きなお蔭がいただけ無いのだと、思い至った次第です。そういう事に思い至り感謝を感じるようになると、このほど(まだ予断を許さないのですが)一応、納得できる結果が出ました。大きなお陰です。         

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