福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

10月27日は御大師様に大師号が諡号された日です

2024-10-27 | 頂いた現実の霊験

10月27日は御大師様に大師号が諡号された日です。
延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られています(注1)。「弘法」という言葉は大師が久米寺大塔のもとで善無畏三蔵が埋蔵しておいてと伝えられる大日経を感得されたときに「小国片域大機未だ熟せず、仍て此法を此地に止めて、まさに機を待ち時を待たんとす。来葉必ず弘法利生の菩薩来りて、この教を世に恢むべし」という善無畏三蔵懸記の文があったという「久米流記」によっています(注3)。
この大師号を勅使平惟助朝臣が高野の御廟の階の前で諷読したとき、前に大師が影向されたと伝わります。(2)
注1)日本紀略の後編一に「・・廿七日已卯,敕諡故大臣僧正-空海,曰-弘法大師.依權大僧都-觀賢上奏也.令齎敕書於少納言-平-惟扶,發遣干紀伊國金剛峰寺.」とあります。
また、 扶桑略記の延曆二十一年十月には、「琴絃旣絕、遺音更淸。蘭叢雖凋、餘香猶播。故贈大僧正法印大和尙位空海、鎖弃煩惱、抛却驕貪、全三十七品之修行、斷九十六種邪見。受密語者、滿於山林、習眞趣者、成於淵藪。況太上法皇、久味其道、追念其人。誠雖浮天之波濤、何忘積石之源本。宜加崇餝之諡、號弘法大師。」(琴絃きんげん旣すでに絕たえ、遺音いいん更さらに淸きよし。蘭叢らんそう凋しぼむと雖いえども、餘香よこう猶なほ播しく。故こ贈ぞう大僧正だいそうじょう法印ほういん大和尙位だいわじょうい空海くうかい、煩惱ぼんのうを鎖弃しょうきし、驕貪きょうどんを抛却ほうきゃくして、三十七品ほんの修行しゅぎょうを全まっとうし、九十六種しゅの邪見じゃけんを斷たつ。密語みつごを受うくる者もの、山林さんりんに滿みち、眞趣しんしゅを習ならふ者もの、淵藪えんそうを成なす。況いわんや太上だじょう法皇ほうおう久ひさしく其その道みちを味あじわひ、其その人ひとを追念ついねんす。誠まことに天てんに浮うかぶの波濤はとうと雖いえども、何なんぞ石いしを積つむの源本げんぽんを忘わすれん。宜よろしく崇餝すうしょくの諡おくりなを加くわへ、弘法こうぼう大師だいしと號ごうすべし。延曆二十一年十月 扶桑略記)とあります。




なお大師号奏上時には醍醐天皇の夢枕で大師が「高野山結ぶ庵に袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」と詠まれたことは多くの大師伝に載っています。
注2)真言宗大徳列伝等

注3)「和州久米寺流記」に「東塔院大塔大日経安置の事」「この塔は多宝大塔、高さ八丈杏里。南天鉄塔半分を遷し善無畏三蔵之を基立す。日本最初の多宝大塔なり。・・然而、東土邊州利益の願に依って大日経を寶持して独り入る焉野馬台之國・・三蔵普く四瀛八紘を踏廻し七軸安置の場を求む。大日本國高市郡王舎側此の地最も美と称するに足る。仍ち盧東院の岫に三箇年、七百二十日際。一寶龕を起立して之を東塔院と號す。即ち三粒の仏舎利を以て寶石の底に納む。又、七軸の大日経を刹柱の下に安ず。即ち秘蔵記に云、駄都は是れ釈尊の遺身なり。経王又舎那の全体なり。然ればすなはち小國片域大税未熟、仍ち此の法をこの地に留め、正に所持の時を待機すべし。末葉必ず興法利生の菩薩来りて而も此の教えを世に恢むべしと記して悉曇国に皈り畢りぬ。其の後、弘法大師・・佛前にその願を発して曰く、仏法常求尋要してより、三重五乗十二部経心神に疑ひあり。未だもって決せず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまへと一心に祈願するに、傍らに人ありて、告げて曰く、此に経あり。名て大毘盧遮那経なり。是れ乃ち所要なり。即ち随喜を生じ、件の経王を尋求す。大日本國高市郡久米道場東塔下にこの経を得る。。」

 

 

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