法然上人は長承2年4月7日(1133年5月13日)美作国に押領使・漆間時国の子としてお生まれになっていますが9歳の時に父を殺され、比叡山に登り研鑽の結果、承安5(1175)年、43歳で「浄土宗」をお開きになりました。
私も法然上人のお言葉に膝を打つことがあります。
法然上人「百四十五箇条問答」には
「一。申候事のかなひ候はぬに、仏をうらみ候、いかが候。
答。うらむべからず、縁により信のありなしによりて利生はあり、この世、のちの世、仏をたのむにはしかず。
一。仏をうらむる事は、あるまじき事にて候な。
答。いかさまにも、仏をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す、信なき物は小罪だにも滅せず、わが信のなき事をはづべし。」等のお言葉には本当にハッとさせられます。
又このほかにも、
「又云。人の手より物を得んずるに、すでに得たらんと、いまだ得ざるといづれか勝べき。源空はすでに得たる心地にて念佛は申なり。
又云。往生は一定と思へば一定なり。不定と思へば不定なり。
又云。念佛申さんもの十人あらんに、たとひ九人は臨終あしくて往生せずとも、我一人は決定して往生すべしと思ふべし。又云。一丈の堀をこえんと思はん人は、一丈五尺をこえんとはげむべし。往生を期せん人は、決定の信をとりあひはげむべきなり。又云。
いけらば念佛の功つもり、しなば浄土へまいりてなん。とてもかくても、此身には思ひわずらふ事ぞなきと思ぬれば、死生共にわづらひなし・・」
とおっしゃっています。どのお言葉も現代人にもわかりやすいお言葉です。