観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・5/15
五、観音娑婆有縁殊に日本に有縁なること。
須弥四域經の説に依るに劫初には人壽無量歳にして身に光明有り、然るに地肥地味を貪り食し後には自然の粳米を食するに依りて身の光明消て世界黒暗になりぬ。此の時に阿弥陀如来これを憐れみ玉ひて寶應聲菩薩、即ち観音、寶吉祥菩薩、即ち大勢、を遣して第七の梵天より七寶を取りて日月星辰を造りて四天下を照らし玉ふ。是に依りて日月星辰は西に向ってめぐり、極楽世界の阿弥陀仏を瞻禮稽首すといへり。日輪は観音の應化にして娑婆世界の闇冥を照らし衆生を饒益し玉ふ。日月の光に当たるもの誰か利益を蒙らざらんや。是又娑婆有縁の証なり。殊に和國は大日本國と号して宗廟と崇める天照太神宮は即ち日神なり。昔此の国未だ無かりし時、伊弉諾尊伊弉冉尊遥かに大海を見玉ふに、大日といふ印文ありけるに依て、天の逆鉾を下して探り玉ひけるに其の滴り我が葦原の中洲と成れり。故に大日本國と名く(沙石集巻一第一話太神宮の御事)。其の後に天照太神素戔嗚尊の天津罪を犯し玉ふを憎ませ玉ひて天岩戸に閉籠り玉ひしかば、天下常闇になりにけり。八百万の神達かなしみ玉ひて太神宮をすかし出し奉らん為に庭火を焚きて神楽を奏し玉ひければ、御子の神達の御遊びゆかしくおぼしめして、岩戸を少し開きて御覧じける時に世間明らかにして人の面見へければ、あら面白といふことは其の時云始めたり。さて大力雄尊と申す神いだき奉りて岩戸に木綿(しめ)を引きて此の中に入らせたまふべからずとて、やがて抱き出し奉りて遂に日月と顕せさせ玉ひ、天下を照らし玉ふ。大日の印文より事起こりて内宮外宮は胎蔵界金剛界の両部の大日如来と習ひ伝るなり。(天地靈気記等)。四重秘釈の中の第三に観音は即大日如来なりと云と同じ。又、大日孁尊(おおひるめのむち)といふは大毘盧遮那佛なり。和語梵語同じなるものなり。天岩戸と云ふは兜率天なり。又は高天原と云は即葛城金剛山なり。蓮入法師の傳を思合わすべし(元亨釈書巻14に「釋蓮入、伯耆大山に居す。精修に勤む。寛弘の間長谷寺に詣ず。七日を期して誓て曰、願くは大悲者、我に来世の所居を示せと。第七夜夢に一比丘殿帳より出て曰、此れより西南九里勝地あり、汝彼に止て修錬せよ。必ず都率内宮に生れん。覚めて歓喜し即ち彼に至る。東西山高く地形邃閴(すいげき)而して堂宇無し。又人跡絶へたり。入偏夢事に憑き一樹下に居す。その夜西方に光あり。入るに所謂魅怪を以て也。夜夜此の如し。然るに嬈害無し。一朝光所に往く。大巌有り。上に石板を置く。敗葉埋積。蘚苔固封。入りて蘚葉を去る。板を立て石面を拂拭す。弥勒三尊像を彫る。其の刻畫奇妙。殆ど人工に非ざる也。入りて奇想を作す。益前夢固。普く四来に告ぐ。精舎を勧建せよと。年を経てここに終る。亡に臨んで果して祥瑞有り。」)密教には是を密厳世界と号す。大日即ち観音なるが故に天照大神の御本地を長谷寺の観音なりと古より習ひ伝ふる也(長谷寺密奏記等)。又三種の神祇と云は神璽(即佛部)、寶剣(即金剛部)、内侍所(蓮華部)なり。神璽は玉なり。如意宝珠にして其の色鈍色なり。是は無相無分別の徳にして内には佛部の総徳を秘し、外には愚痴の煩悩と現ず。宝剣は八岐大蛇の尾より出ず。是は智慧決断の徳にして内には金剛部の利用を秘し、外には瞋恚の煩悩と現ず。神鏡は普く一切の物の影を寫す大悲愛染の徳にして内には蓮華部の摂化利物の徳を隠し、外には貪欲の相を顕す。此の三種の神器は大日如来の三部三密三身三點の徳を表す。即ち又観音所具の三部三身なり。如何となれば観音の種字一字の真言は「きりく字梵字」にして、「か梵字」(貪・蓮華部・解脱)、「ら梵字」(瞋・金剛部・般若)、「い梵字」(痴・佛部・法身)、「あく梵字」(本来清浄)の四字の合成なり。即三毒本来清浄の義をあらはせり。故に是の一字の真言を誦する事十萬遍に滿ずれば決定して極楽浄土の上品上生に往生すと理趣釈經に見へたり(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋「是故蓮華部亦名法部。由此字加持。於極樂世界。水
鳥樹林皆演法音。如廣經中所説。若人持此一字眞言。能除一切災禍疾病。命終已後當
生安樂國土得上品上生」)。此の意を以て普門品には三毒盛多なる者常に観音を念じ奉れば即ち三毒を離るといへり。謂く此の三毒は我が胸中の心蓮華より起れり。心蓮本来清浄にして久しく生死の汚泥の中に流転すれども煩悩の為に染汚せられず。煩悩即ち菩提なるが故に。設ひ諸慾に住すれども猶蓮華の垢の為に染せられざるが如し。されば理趣経の偈に、「如蓮體本染、不為垢所染、諸慾性亦然、不染利群生」と説れたり。又四重秘釈の第四重の意なり。此の三種の神祇を持し玉ふは日本の天子にして天照太神の御苗裔實に人間の種ならぬ事ぞやんごとなき。最勝王經には、天人擁護するが故に天子と号すといへり(金光明最勝王經王法正論品第二十「由諸天加護 得作於國王」)。天子は十善戒の徳に酬て萬乗の主となり、萬機の政を行ひ玉ふに、三毒の相を現ずと云へども内には十善戒の心に住し玉ふ事を顕せり。普門品の偈に、能伏(梵字あく)災(梵字い)風(梵字か)火(梵字り)と説けるは「梵字きりく」字門三毒本来清浄の義を隠して説けるなり。故に得自性清浄法性如来と名く(理趣経に「時薄伽梵得自性清浄法性如来・・その時、大日如来は、あらゆるものは本来清らかであることを顕わすために、自性清浄法性如来(観自在王如来) に変身された」)。三種の神祇皆観音の徳なりといへども、殊に神鏡は三部の中の蓮華部大悲の徳なるがゆえに観音の三昧耶形なり。瑜伽經の中に、観自在菩薩手中の鏡を以て虚空に擲と説けり(金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經卷上「時四大菩薩。同聲告金剛界如來言。我今現此神通。爲欲鉤召一切有情。令入法界。以索引至金剛場。以鎖堅諸藏誐。以鈴適悦彼性。令快樂故。時觀自在菩薩。以手中鏡擲於虚空。寂然一體還住手中。説此金剛智曰(a梵字)」)。此の鏡とは即日輪なり。又即ち悉多圓明の心月なり。一論の「於内心中観日月輪」といへるは是也(金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論「第三言三摩地者。眞言行人如是觀已。云何能證無上菩提。當知法爾應住普賢大菩提心。一切衆生本有薩埵。爲貪瞋癡煩惱之所縛故。諸佛大悲。以善巧智。説此甚深祕密瑜伽。令修行者。於内心中。觀白月輪。由作此觀。照見本心。湛然清淨。猶如滿月光遍虚空無所分別」)。禁中の二間の観音供、日天子の法などいへる秘法は東寺の一の長者の修する法なり。是皆内侍所を以て本尊として修するなり。又勢州の山田に世貴寺を建て(伊勢國山田世儀寺か?)、如法經(法華経)を書寫して神法楽に備ふ。世貴は観音の別名なり。貴は自在の義なれば世貴は即ち世自在なり。金剛頂大教王經に、金剛宝の讃に曰、金剛法と善利金剛蓮と妙浄世貴と金剛眼と我金剛眼を禮す、といへり。
(金剛頂大教王經疏「金剛法善利金剛蓮妙淨世貴金剛眼我禮金剛眼金剛利大乘金剛劍大器妙吉金剛染我禮金剛惠金剛因大場金剛輪理趣能轉金剛起我禮金剛場金剛語妙明金剛誦妙 成無言金剛成我禮金剛語」)。されば日本我朝に生れたらん者は天照太神の御恵を蒙らずといふことなく、日月の光に照らされずと云事なし。是併しながら観自在菩薩大悲利物の御方便なり。誰か一念片時も観音の御恩を忘るべきや。父母の子を愛する道理にも過ぎたれども或は不孝の子なれば其の命を断ち或は父の名を絶す。然るにいかなる悪人なればとて日月の光に當らざるはなく、観音の大悲を蒙らざるはなし。請観音経には、或は地獄に遊化し大悲代受苦と説て(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經「衆生若聞名 離苦得解脱 亦遊戲地獄 大悲代受苦 或處畜生中 化作畜生形
教以大智慧 令發無上心 或處阿修羅 軟言調伏心 令除憍慢習 疾至無爲岸 現身作餓鬼 手出香色乳 飢渇逼切者 施令得飽滿 大慈大悲心 遊戲於五道」)怨親平等に撥済し玉ふといへり。嗚呼たのもしいかな我等薩埵有縁の國に生れて忝く日夜に恩光を蒙る事、若し観音に帰依せずんば必ず不祥に逢ひ後に悩むとも甲斐なかるべし。欽(つつし)めや。