懐風藻序
懐風藻序
逖(とほく)前修を聽き、遐(はるか)に載籍(古典)を觀るに
襲山降蹕の世(天孫降臨)に、橿原に邦を建てし時に
天造艸創、人文未だ作らず
神后坎(かん)を征し(三韓征伐)品帝(ほんてい・誉天皇)乾に乘ずるに至りて
百濟入朝して龍編を馬厩に啓き
高麗上表して烏冊を鳥文に図しき(日本書紀に、敏達帝の時、高麗の使者が来たが奉った文書は、烏の羽に書いてあった、とある。)
王仁始めて蒙を輕島に導き(日本書紀・巻第十・応神紀に「応神天皇の十六年の春二月に、王仁が来て、すぐに太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が師とされ、多くの典籍を王仁に習われた・・」とあり。)
辰爾(しんに)終に教へを譯田に敷く(『日本書紀』に572年(敏達天皇1)には誰も読むことのできなかった高句麗の国書を読解し、天皇と大臣の蘇我馬子に称賛されたとあり。)
遂に使して俗をして洙泗の風(孔子の学風)に漸み
人をして齊魯の學に趨かしむ
聖徳太子に逮(およ)びて
爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制したまふ。
然すがに專らに釋教を崇み、未だ篇章に遑もなかりき。
淡海(あふみ)の先帝の命(天智天皇が即位)を受くるに至るに及びて
帝業を恢開し皇猷(こうゆう・天子の治世の道)を弘闡して
道、乾坤に格り功宇宙に光れり
既にして以為(おもほしけらく)、風を調へ俗を化(すすむ)ることは
文より尚きは莫く
徳を潤(ぬら)し身を光らすことは孰れか學より先ならむ。
爰に則ち庠序(しょうじょ・学校)を建て茂才(秀才)を徵し、
五禮(吉(祭祀)・凶(喪葬)・賓(賓客)・軍(軍旅)・嘉(冠婚)の五つの儀式)を定め百度(諸法制)を興す
憲章法則、規模弘遠なること
夐古(けいこ・遠い昔)以來、未だこれ有らざるなり
是に三階平煥(立派な宮殿)四海殷昌
旒纊(りょこう・天子)無為にして、巖廊(宮殿)暇多し
旋(しばしば)文學の士を招き時に置醴の遊び(酒宴)を開く
此の際に当りて
宸瀚文を垂れ、賢臣頌を獻ず
雕章麗筆(美文)唯百篇のみにあらず
但し時に亂離(壬申の乱)を經て、悉く煨燼に從ふ
言(ここ)に湮滅を念じ軫悼(なげきかなしむ)して懷ひを傷む
茲より以降、詞人間出す
龍潛の王子(大津皇子)、雲鶴を風筆に翔らし
鳳翥(ほうしょ・鳳凰の飛び上がる)の天皇(文武天皇)月舟を霧渚に泛ぶ
神納言が白鬢を悲しみ(懐風藻にある大神高市麻呂の侍宴応詔詩に「病に臥してすでに白髪・・」とあり)
藤太政が玄造を詠ぜる(太政大臣藤原史の「政斉く玄道に敷く」の詩)
茂實(盛んで美しい内容)を前朝に騰げ
英聲を後代に飛ばす
余、薄官の餘間を以て、心を文囿に遊ばす
古人の遺跡を閱し
風月の舊遊を想ふ
音塵眇焉たりといへども、餘翰ここに在り
芳題を撫して遙かに憶ひ
淚の泫然たるを覺(しら)ず
縟藻を攀ぢて遐く尋ね(美しい詩文を遠く尋ね)
風聲の空しく墜ちなむことを惜しむ
遂に乃ち魯壁の餘磊を收め
秦灰(秦の始皇帝の焚書)の逸文を綜べたり
遠く淡海より、平都(奈良朝)に曁(およぶ)まで
凡そ一百二十篇、勒して一卷と成す
作者六十四人、具さに姓名を題し
并せて爵里を顯はして、篇首に冠らしむ
余が此の文を撰する意は
將に先哲の遺風を忘れずあらむが為なり。
故に懷風を以つて名くる云爾。
時に天平勝寶三年(752・この時代は孝謙天皇)歳辛卯に在る冬十一月なり。