・『金剛』 弘法大師御詠歌第一番
ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ在しますなる
( これは、お大師様から約四百年後の十二世紀に天台宗慈鎮和尚が高野山へお詣りし、灯籠堂に籠られた際お大師様にお会いできた感激を詠んだものです。)
・『光明』 弘法大師御詠歌第二番
高野山結ぶ庵に袖くちて こけの下にぞ 有明の月
(大師ご入定から九十年近くあとの延喜21年(921)醍醐天皇は「弘法大師」の諡号を賜りましたが、諡号宣下の夜、大師は醍醐天皇の御枕辺に現れこの歌をおよみになりました。高野山の奥深く入定おわしまして、法衣の袖が朽ちるまでになった今でも、お大師様は有明の月のように明るい慈悲の光で世の人々を導いておられる。)
・『梵音』 弘法大師御詠歌第三番
阿字の子が阿字の古里 立ちいでて また立ちかえる阿字の古里
(これはお大師様が、甥であり弟子でもあった智泉大徳の入滅に際してお詠みになった歌とされています。阿字で象徴される大日如来の故郷からこの世へ出てきた子供は、修行を終えてまた大日如来の古里へ帰ってしまった、という意味でしょう。「衆生よ、すべての者が阿字の子であり、また阿字の古里へかえっていくのだぞ」とお大師様が智泉大徳の死に際してわれわれに説法されたのです。)
ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ在しますなる
( これは、お大師様から約四百年後の十二世紀に天台宗慈鎮和尚が高野山へお詣りし、灯籠堂に籠られた際お大師様にお会いできた感激を詠んだものです。)
・『光明』 弘法大師御詠歌第二番
高野山結ぶ庵に袖くちて こけの下にぞ 有明の月
(大師ご入定から九十年近くあとの延喜21年(921)醍醐天皇は「弘法大師」の諡号を賜りましたが、諡号宣下の夜、大師は醍醐天皇の御枕辺に現れこの歌をおよみになりました。高野山の奥深く入定おわしまして、法衣の袖が朽ちるまでになった今でも、お大師様は有明の月のように明るい慈悲の光で世の人々を導いておられる。)
・『梵音』 弘法大師御詠歌第三番
阿字の子が阿字の古里 立ちいでて また立ちかえる阿字の古里
(これはお大師様が、甥であり弟子でもあった智泉大徳の入滅に際してお詠みになった歌とされています。阿字で象徴される大日如来の故郷からこの世へ出てきた子供は、修行を終えてまた大日如来の古里へ帰ってしまった、という意味でしょう。「衆生よ、すべての者が阿字の子であり、また阿字の古里へかえっていくのだぞ」とお大師様が智泉大徳の死に際してわれわれに説法されたのです。)