以前ℕℍKの即身佛の番組を見ました。この番組では鉄門海上人が座亡したお姿を信徒が即身仏にしたと紹介していましたが、もともと鉄門海上人の衆生済度の燃えるような衆生無辺誓願度という望みが自ずと即身仏のお姿を現出させたのであろうと思います。久しぶりにいい番組に出会えました。即身仏はもともと印度鶏足山に目連尊者が入定されたのが始まりとは思いますが、日本でもおおくの高僧が入定されています。以前四国遍路のとき改めて札所の寺寺でも明治まで衆生済度のため入定されているご住職が多いことに気が付き粛然として襟を正す思いをしました。
これらの即身仏の御本家はお大師様です。御大師様は即身仏としていまも高野山の奥の院に入定され日夜尽きること無き衆生済度にあたられておられます。お大師様の即身仏としてのご入定時のお言葉「虚空尽き、衆生つき、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」は私のような愚僧をも粛然とした気持ちにします。nhkの番組でも最後にアナウナサーが鶴岡市の本明寺の本明海上人の即身仏を拝して泣いていたのが印象的でした。
即身仏はみずから飲食を絶ち、修法しつつ衆生済度を願って入定します。以前藤吉地蔵という死刑囚が衆生済度を願ってお地蔵様になった話を載せました(注)が、死ぬときにどういう心構えで死ぬかは誰もが絶対避けて通れない道です。高齢化社会を迎え、これから続々と死ぬ人が増えます。自分自身もその一人です。即身仏や藤吉地蔵は「本来の終活」の好ましい姿を示しています。死ぬときは誰もが「衆生無辺誓願度」を願って死にたいものです。
(注、藤吉地蔵様のこと
「観音の霊験」中根環道(明治・昭和期の教育家、曹洞宗僧侶。鶴見大学理事長兼校長、駒沢大学学長)の本に死刑囚も観音様のお導きで大往生しお地蔵様になったという不思議な有難い話が載っていました。
要約すするとこうです。
当時一世を風靡した大博徒の武部申策から聞いた話として以下の様に書いています。
「昭和7年滝野川で強盗殺人を犯し死刑宣告を受けた藤吉という男がいた。どういう訳か自分が博徒であるということからか獄中から、死を前にして自分に縋りたいと手紙をよこした。そこで十円を送ってやったが、すぐに数珠や経帷子等死出の旅路に必要な支度一式を整え残り8円50銭也といって其の明細を送ってよこした。これは見所のある奴とおもいその後刑務所を訪問して「懺悔をすれば仏さまは助けてくださる。これから刑の執行まで一心に信仰せよ」というとそれまでの傲岸な顔つきが打って変わったようになり、「わかりました」という。
その後も訪問して「お前は自分(武部)のことを恩に着て草葉の陰から祈っているというが、本当か。本当に私の為に祈る気持ちがあるなら、下野の出流山の前に地蔵を建てて藤吉地蔵として末永く祀ってやるから世の苦しむ人を助けてくれ。それができるか」というと、「できます」という。
その後、昭和8年3月市谷刑務所から刑が執行されたとの電報が届いた。行くと死刑執行人が感心していた。執行前に藤吉は「私のような者でも信仰によって清らかなものとなることが出来ました。どうか悪人を善い方へ導いてください」いい、一通の遺書を書いたという。それには「吾が心 今より後は 出流山の地蔵となりて 人を導く。 藤吉。 武部申策様」とあったという。
藤吉は死刑執行直前になると正座して観音経を朗々と読み、その後右手に数珠、左手に観音経をもち死する事帰するがごとくであったという。
その後私が帰宅して夜半二時ころ観音経をあげていると、バタバタと音がした。その瞬間凍り付くような寒気がしてぞっとした。右手を見ると私にお辞儀をしている者がいる。「藤吉きたのか」というと、最早姿は見えなくなった。藤吉はいまも出流山の藤吉地蔵として善男善女のお参りが絶えない」
福聚講でも何度も坂東17番満願寺をお参りしていますが藤吉地蔵様には気が付きませんでした。
しかし昭和46年発行の清水谷孝尚浅草寺貫首様の「観音霊場坂東札所めぐり」には「十三重の塔、藤吉地蔵などを廻拝」とあるので知る人ぞ知るお地蔵さまであったのでしょう。今も
ネットでは「出流弁財天、清滝稲荷、藤吉地蔵、 先々代墓所、女人堂をお参りして奥ノ院を目指しました」等とでています.
これらの即身仏の御本家はお大師様です。御大師様は即身仏としていまも高野山の奥の院に入定され日夜尽きること無き衆生済度にあたられておられます。お大師様の即身仏としてのご入定時のお言葉「虚空尽き、衆生つき、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」は私のような愚僧をも粛然とした気持ちにします。nhkの番組でも最後にアナウナサーが鶴岡市の本明寺の本明海上人の即身仏を拝して泣いていたのが印象的でした。
即身仏はみずから飲食を絶ち、修法しつつ衆生済度を願って入定します。以前藤吉地蔵という死刑囚が衆生済度を願ってお地蔵様になった話を載せました(注)が、死ぬときにどういう心構えで死ぬかは誰もが絶対避けて通れない道です。高齢化社会を迎え、これから続々と死ぬ人が増えます。自分自身もその一人です。即身仏や藤吉地蔵は「本来の終活」の好ましい姿を示しています。死ぬときは誰もが「衆生無辺誓願度」を願って死にたいものです。
(注、藤吉地蔵様のこと
「観音の霊験」中根環道(明治・昭和期の教育家、曹洞宗僧侶。鶴見大学理事長兼校長、駒沢大学学長)の本に死刑囚も観音様のお導きで大往生しお地蔵様になったという不思議な有難い話が載っていました。
要約すするとこうです。
当時一世を風靡した大博徒の武部申策から聞いた話として以下の様に書いています。
「昭和7年滝野川で強盗殺人を犯し死刑宣告を受けた藤吉という男がいた。どういう訳か自分が博徒であるということからか獄中から、死を前にして自分に縋りたいと手紙をよこした。そこで十円を送ってやったが、すぐに数珠や経帷子等死出の旅路に必要な支度一式を整え残り8円50銭也といって其の明細を送ってよこした。これは見所のある奴とおもいその後刑務所を訪問して「懺悔をすれば仏さまは助けてくださる。これから刑の執行まで一心に信仰せよ」というとそれまでの傲岸な顔つきが打って変わったようになり、「わかりました」という。
その後も訪問して「お前は自分(武部)のことを恩に着て草葉の陰から祈っているというが、本当か。本当に私の為に祈る気持ちがあるなら、下野の出流山の前に地蔵を建てて藤吉地蔵として末永く祀ってやるから世の苦しむ人を助けてくれ。それができるか」というと、「できます」という。
その後、昭和8年3月市谷刑務所から刑が執行されたとの電報が届いた。行くと死刑執行人が感心していた。執行前に藤吉は「私のような者でも信仰によって清らかなものとなることが出来ました。どうか悪人を善い方へ導いてください」いい、一通の遺書を書いたという。それには「吾が心 今より後は 出流山の地蔵となりて 人を導く。 藤吉。 武部申策様」とあったという。
藤吉は死刑執行直前になると正座して観音経を朗々と読み、その後右手に数珠、左手に観音経をもち死する事帰するがごとくであったという。
その後私が帰宅して夜半二時ころ観音経をあげていると、バタバタと音がした。その瞬間凍り付くような寒気がしてぞっとした。右手を見ると私にお辞儀をしている者がいる。「藤吉きたのか」というと、最早姿は見えなくなった。藤吉はいまも出流山の藤吉地蔵として善男善女のお参りが絶えない」
福聚講でも何度も坂東17番満願寺をお参りしていますが藤吉地蔵様には気が付きませんでした。
しかし昭和46年発行の清水谷孝尚浅草寺貫首様の「観音霊場坂東札所めぐり」には「十三重の塔、藤吉地蔵などを廻拝」とあるので知る人ぞ知るお地蔵さまであったのでしょう。今も
ネットでは「出流弁財天、清滝稲荷、藤吉地蔵、 先々代墓所、女人堂をお参りして奥ノ院を目指しました」等とでています.