問、神事に僧侶を忌むはなぜか。答、上位の神は三宝(佛法僧)を愛するが下位の鬼神は僧侶を忌む。(慈雲尊者、「問決」)
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問、神事に僧尼を忌む、その義有りや無しや。
答、その義あるなり。神に依りて三宝を愛するあり。寄帰傳に「摩訶迦羅天、性三宝を愛す」と云ふ。(南海寄歸内法傳卷第一「號曰莫訶哥羅。即大黒神也。古代相承云。是大天之部屬。性愛三寶。護持五衆使無損耗。求者稱情。但至食時。厨家毎薦香火。所有飮食隨列於前。」)また僧尼を忌むあり、七曜星辰別行法に云「婁宿直日、鬼、令尼居と名く、人をして両脚骨髄痛み座臥することを得させず。この鬼の所為なり。もし祭法に遇ざればその脚すなわち失す。五色の紙銭二百貫と好肉白脯(ほしじ)を以て如法にこれを祭らば患人一七日の内に差ゆ。行履すなわち得る。祭日には輒ち僧尼宅に入ることを得ず。切にこれを禁ず。祭おわって日を隔てれば則ち得。」此の類は鬼神僧尼を忌む徴なり。浄戒の僧尼天神守護す。故に下類の鬼神は嫌ひ忌むなり。律蔵の中に世尊・・城に入りたまはんとす、神その祭祀をさまたげんことを恐る。世尊の入り来るを欲せず、女神なれば自ら衣服を脱して裸形にして向かひ立つ。世尊いはく、女人の法、衣服荘厳するも威曜すくなし。裸形は恥ずべしと。終に別處に去りたまふ。此の類おもふべし。伊勢両神宮の如き、上位の天神なり。平日僧尼を禁ずるは不是なり。下等の鬼に同じからず。大抵は鎌足公、興福寺を建立して氏寺となしたまふにて知るべし(中臣鎌足は神官の出であったが天智天皇8年(669年)山背国山階に山階寺を創建(興福寺となる)。春日大社は768年(神護景雲2年)に鎌足の曽孫・藤原永手が創建。その後興福寺と春日大社は一体として興福寺が管理)。)
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問、神事に僧尼を忌む、その義有りや無しや。
答、その義あるなり。神に依りて三宝を愛するあり。寄帰傳に「摩訶迦羅天、性三宝を愛す」と云ふ。(南海寄歸内法傳卷第一「號曰莫訶哥羅。即大黒神也。古代相承云。是大天之部屬。性愛三寶。護持五衆使無損耗。求者稱情。但至食時。厨家毎薦香火。所有飮食隨列於前。」)また僧尼を忌むあり、七曜星辰別行法に云「婁宿直日、鬼、令尼居と名く、人をして両脚骨髄痛み座臥することを得させず。この鬼の所為なり。もし祭法に遇ざればその脚すなわち失す。五色の紙銭二百貫と好肉白脯(ほしじ)を以て如法にこれを祭らば患人一七日の内に差ゆ。行履すなわち得る。祭日には輒ち僧尼宅に入ることを得ず。切にこれを禁ず。祭おわって日を隔てれば則ち得。」此の類は鬼神僧尼を忌む徴なり。浄戒の僧尼天神守護す。故に下類の鬼神は嫌ひ忌むなり。律蔵の中に世尊・・城に入りたまはんとす、神その祭祀をさまたげんことを恐る。世尊の入り来るを欲せず、女神なれば自ら衣服を脱して裸形にして向かひ立つ。世尊いはく、女人の法、衣服荘厳するも威曜すくなし。裸形は恥ずべしと。終に別處に去りたまふ。此の類おもふべし。伊勢両神宮の如き、上位の天神なり。平日僧尼を禁ずるは不是なり。下等の鬼に同じからず。大抵は鎌足公、興福寺を建立して氏寺となしたまふにて知るべし(中臣鎌足は神官の出であったが天智天皇8年(669年)山背国山階に山階寺を創建(興福寺となる)。春日大社は768年(神護景雲2年)に鎌足の曽孫・藤原永手が創建。その後興福寺と春日大社は一体として興福寺が管理)。)