第二〇課 試合の練習
試合をあまりに試合第一と思い過ぎ、凝り過ぎる結果は、却って硬くなり思わぬ敗を取ることがあります。
また練習を練習だけの張合いのないものと心得、身を入れなければ、いくらやっても実みになりません。
日本曹洞宗の開祖、道元禅師のお言葉に「修業と効果とを二つのものに見てはいけない。修業しているそのことが効果であり、効果を得つつあるそのことが修業なのだ。なぜといえば人格の完成期は無限のものであり、いつが修業の終り、いつが効果の到着点ということがないからである。ひと座りひと座りの坐禅に刻々、全人格的の意義があるのだ」。(修証不二〔普勧坐禅儀〕)
これによると、試合と練習とを区別しないばかりでなく、その場その場の一モーションに全競技的精神が籠らねばならないのであります。
(ソチオリンピックの浅田選手のことをまたも思い出してしまいました。練習も試合であり、試合も練習と思えればいい結果が出せるのでしょうが一朝一夕には身に付かないこともたしかです。修証不二(修行と覚りは一体である)という道元禅師のお言葉も貴いものです。どこかで「泥棒の真似をすればその瞬時に泥棒になっている。いまのは練習でした、とは言っても許されまい、そのように坐禅も座ればそれが瞬間的に覚りの姿である。」という説法がありました。此れを普遍すれば毎日の生活は各人にとってはそれが練習であり同時に本番であるということでしょう。今までは練習の人生でした、これから本番の人生です・・というのはありえないのです。怖ろしいことです。)