第二十九 問答決着章(真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・・35
(真言行者の安心)
問。真言行者の安心は凡聖不二の観に住するにあり。因より果に至るまで総じてこの観心をはなれずと。しかるに初心の行者は凡聖不二の理を解せず、証せざるが故に、凡聖隔歴す。究竟の仏果に至りてはじめて凡聖不二の理を証す。何ぞ観心、初後始終に通ずといふべけんや。
答。真言行者初め阿闍梨の開示を蒙りて凡聖不二の名字を聞き、凡聖不二の道理を信ず、未だ全く解せずといえども、この時の信心、凡聖不二の理を縁じて生ずるが故に、分に凡聖不二の理に入るなり。たとへば人の海に入るに初入の者あり、其の源底を尽くす者あり、浅深異なりと雖も共に「海に入る」といふが如し。たとへば人あり。暗室に於いて灯を点ずるに室内の器物悉く分明なり。更に大灯を点ずる時益々分明なり。即ち知りぬ、後灯所破の闇は前灯と合して住するなり。若し前灯に暗なくんば後灯は明かりをますことなるべし。真言行者の観心も亦この如し。初心のときは心外に佛を求め、凡聖隔歴す。しかれども凡聖不二の理を信ずるが故に已に分に凡聖不二の海に入り、凡聖不二の理を照らすなり。三密の行漸く進み究竟の仏果に契証するに至りては、隔歴の執を尽くして凡聖不二の理円満明了なり。海の源を尽くす如くまた後灯のますます明了なるが如し。