福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

高野山参拝での啓示

2014-03-01 | 法話
先日26,7と高野山をお参りしてきました。何点か感じさせられたところがありましたので備忘録がてらに記録しておきます。

1、先ず、高野山駅についてバスで御廟に向かうとき、お大師様の「衆生済度」の強い願いが今もって強く御山に残っていることを皮膚感覚で改めてひしひしと感じさせられました。知り合いの人が「高野山へお参りするとその後何日かは霊気にあてられてボーットしてしまう」と言っていたのを思い出します。その後、御廟に向かって石畳を歩きながら突然こうういう気持ちが沸き起こってきました。「自分のような高野聖の末席を汚しているような者でも衆生無辺誓願という気持ちを持っているのだからお大師様やここに住まわれた歴代の高僧方は想像を絶する強い気持ちで衆生済度を願われたのだ。その気持ちはとてつもなく強いものであり今も日夜衆生済度の働きをしておられるのだ。だから高野山は独特の霊気にあふれているのだ」と。

 そして奥の院の御廟の前まで進み理趣経をあげると、「衆生は本来福徳に満ちた存在である、衆生はすでに救われているぞ」と謂われた気もしました。数年前四国太龍寺で求聞持を行じたときも、満天の星空を拝みつつ「なぜ衆生は福徳に恵まれないで苦しんでいるのでしょうか」と拝んだ時、「衆生はすでにこの満天の星空のような福徳を全員がもれなくさずかっておるから心配ない」と今回と同趣旨の啓示を頂いていました。しかし現実には人々の福徳の現れ方の落差は激しいものがあり、一生かけてもこの公案は解けないであろうと思っているところでした。そこへ同じような内容のお授けを頂いたのです。
 此の後お大師様から「衆生済度の手伝いをせよ」とも諭されたような気もしました。お経をあげながら私は「自分はとても大それたことができるような力はありません。しかし御大師様の衆生済度のお手伝いの端の端の端の最末端くらいはさせていただきたいです。」と心に御誓いをしました。御廟にお参りすると必ずこういう衆生済度のお手伝いをしなければという気持ちにさせられるのですが問題はそれがなかなか具体化しないことです。今回は大いに反省しました。反省を込めてここにに記録しておきます。

2、そのあと残雪を踏みしめながら我が家のお墓にお参りしましたが、丁度読経が終わったと同時に付き合いのある金融機関から、金銭的な朗報がありました。此れは不思議でした。高野山の端まで電波が届いたこと以上に預けていた元本の一割の利益が数日で出たのです。生臭い話ですがお墓参りの功徳の実例として記録しておきます。

3、さらにそのあと訪問した身内から全く期待してなかった「福」を更に授けられました。

4、この日は、雨の予報にもかかわらず雨は上がり、お大師様からお諭を頂いた後、さらに次々と現実的利益も授けられなんともいえない有難い一日でした。お参りの有難さを噛みしめた日でした。今後の為に記録しておきます。
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