私は広島県深安郡に出生しましたが33歳のとき事故で左半身不随となりました。医者にも見捨てられた私はひそかに叔母の勧めで死を決意して四国遍路にでました。家族と水杯を交わし、先達戸田覚明大僧正の同行に随行しました。この頃の私は流動食以外はのどにとおらなくなっておりましたが、ただただお大師様におすがりする一心で、松葉杖に縋りながら皆さんに助けられながらおまいりを続けました。
最大の難所横峰山は同行の皆様に手をひかれ足を担がれての参拝となりました。途中あまりのきびしさに倒れ果ててしまいましたが、なおもどうか命の続くかぎり登らせてくださいとお願いし、山道をのぼりはじめたその時、体全体に電流のようなものが走り、いままで曲がらなかった首、左腕が突然まがるようになったのでございます。
ときに昭和44年4月4日のことでございました。事故以来決してまがることのなかった左半身がまがるようになったのです。科学万能の現代に、稀に見る一大奇跡を頂いたのです。涙で前が見えなくなる中を横峰寺参拝を終えました。
先達の戸田僧正様は「そなたはこの大慈悲の報恩に、仏門に帰依し衆生済度しなければならぬ」とおっしゃいました。以来、仏門に入り、今日まで大師の恩徳にすがる信者さんたちはあとを絶たず、浄財により昭和54年本堂、大師堂が見事に建立されました。
有り難いお大師様の恩徳にすがりつつ皆様と共に信心を深めていくつもりでおります。
最大の難所横峰山は同行の皆様に手をひかれ足を担がれての参拝となりました。途中あまりのきびしさに倒れ果ててしまいましたが、なおもどうか命の続くかぎり登らせてくださいとお願いし、山道をのぼりはじめたその時、体全体に電流のようなものが走り、いままで曲がらなかった首、左腕が突然まがるようになったのでございます。
ときに昭和44年4月4日のことでございました。事故以来決してまがることのなかった左半身がまがるようになったのです。科学万能の現代に、稀に見る一大奇跡を頂いたのです。涙で前が見えなくなる中を横峰寺参拝を終えました。
先達の戸田僧正様は「そなたはこの大慈悲の報恩に、仏門に帰依し衆生済度しなければならぬ」とおっしゃいました。以来、仏門に入り、今日まで大師の恩徳にすがる信者さんたちはあとを絶たず、浄財により昭和54年本堂、大師堂が見事に建立されました。
有り難いお大師様の恩徳にすがりつつ皆様と共に信心を深めていくつもりでおります。